2012年10月18日 (木)

【コーヒー・ブレーク】 1980年頃のニュージャージー州フォート・リー(再掲)

Fannie, Freddie and Maria

Everything comes to an end someday; Fannie Mae and Freddie Mac were no
exceptions. While I was staying in New York with my wife in early September of
2008, US government announced the take-over of Fannie and Freddie. Apart from
business trips, this was the second visit to New York for me and my wife after our
stay from 1977 to 82.
 
Fannie and Freddie, both quasi-government companies have played a pivotal role
in the development of US economy in the past 70 years; Fannie was created in
1938 to provide liquidity to the distressed mortgage market, and Freddie was
created in 1970 to compete with Fannie. Both companies have facilitated easier
access to possessing houses through distributing securitized housing loans
purchased from commercial financial institutions to investors.

In 2003 Freddie was found to have underreported its results by $7 billion, and in
2004 Fannie was reported to have inflated its earnings by $9bio. In May 2008
Fannie reported a first quarter loss of $151 million, and in August Freddie
announced a loss of $821 million in the second quarter. According to Nikkei (July
15-16), outstanding balance of bonds issued by Fannie and Freddie amounts to
$1.6trillion, of which 80 percent is owned by foreign investors including sovereign
entities. They were too big to fail.

The fall of Fannie and Freddie was largely attributable to American consumers’
lifestyle itself; spending more than earnings. Such negative rate of saving has long
been sustained by the continuous rise of the home value, which lifted the credit line
available to consumers for more borrowing and spending. Negative rate of saving
was made possible by the securitization of housing loans by Fannie and Freddie,
and has supported consumer-led US economy as well as economies of the rest of
the world. The role of Fannie and Freddie came to an end, and it symbolizes the
beginning of an end to the US hegemony in the global economy.

From 1977 to 82 I was living in New Jersey with my wife and a son of pre-school
age. We rented the second floor of an Italian family; Salvador was running a grocery
store in Manhattan, and Maria was looking after the whole family including their two
high school boys. On weekdays I drove to work to a bank office on Wall Street, and
on weekends we often had BBQ together in the backyard. Maria took care of our
son when we had to go out.

We still kept in touch after we left New York in 1982, and in 1986 we were
informed that Salvador passed away. In 1994 my wife had a serious damage in
spinal nerves, never to recover in full. When we traveled to New York in 1998 for
the first time since we had left there, we paid a surprised visit to Maria. She
welcomed us with a big and warm smile. She liked very much the Japanese craft we
brought for her.

Every Christmas we sent a card but she never wrote to us. In September 2008
we paid another surprise visit to Maria. We parked the car in front of Maria’s, and
she probably heard the sound of the engine. The house door opened, and there
stood Maria, smiling full and warm.

She invited us in and asked if we used to live on the second floor. She said she
was no more renting out upstairs, and started talking with her familiar casual voice.
Long time ago a Japanese family was renting the second floor. The husband was
working in downtown Manhattan; they had a 2 year old son. They were very nice
people. After 20 years they suddenly visited me with a very nice Japanese gift. The
wife then had problems in legs and couldn’t walk well, just like you, Maria said to
my wife. They still write to me and I feel so sorry I cannot write back.
When we kissed her farewell, she looked us warmly and said she was sorry she
could not remember us. Yes Maria, you do remember us! We live in her memory as
she does in ours, forever and ever.

On the way back to Manhattan, Hudson River was as blue and serene as it was
30 years ago. We realized that we came to New York this time to meet ourselves in
the past, young and struggling; we could meet them, but now we know they won’t
be around any longer when we come back next time if at all. Everything comes to
an end some day.

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年10月 2日 (火)

1987年ごろの甲東園駅周辺

【コーヒー・ブレーク】 

駅の北口を出たところは狭いバス・ターミナル。そこに小さい本屋があったのを覚えている。北に向かう駅前通りの左側には家族でよく行った亀鮨。手ごろな値段で新鮮なネタを出してくれた。

駅前の裏通り角にはお好み焼きのタケダ。ネギ焼きが美味しかった。甲東園を離れてから15年以上経ったある日、出張のついでに甲東園に立ち寄った。震災があったが、タケダは昔のまま同じ場所にあった。ネギ焼きを注文したら「ご主人、スジでよろしい?」と聞かれ、意味が分からず曖昧に「ああ」と答えたが、一口食べて牛スジの事だとわかった。その通りを北へ向かうと喫茶店や中華料理店があったが、5年間住んだ間に一回か二回入っただけだったと思う。坂を上ったところにある関学の前のアパートに住み、休日にはよく家族でキャンパスを散策し、大学のレストランや三田屋で食事をした。大学の生協ではアイスクリームを舐めたり、関学のロゴの入ったジャケットやシャツ、小物類を買ったりしたほか、散髪・ランドリーまで利用していた。関学前のトップというベーカリー兼喫茶店も美味しかった。

駅前から阪急今津線の線路沿いに門戸厄神方面へ行くと、心斎橋珈琲店という古い喫茶店があった。採光が良く明るい店内にコーヒーの香りが立ち込め、居心地のよい店だったが、その後ファースト・フード店に変わり、それも今はないようだ。線路を隔てた南側には、急性胃炎で入院した熊野病院があった。

駅の南側にはニューコートという小さなビルがあり、しゃれた陶器を売る店や薬局などがあった。その奥には息子が通った小さい模型屋があったのだが、残念ながらこの一帯は震災の被害にあったようで、すっかり消えてしまった。 家族みんながそれぞれにとても忙しかったが、楽しい5年間であった。

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1998年暮れの磐田駅北口

【コーヒー・ブレーク】 

初めてこの駅に降り立ったのは1998年12月30日。遠州の空っ風の手荒な歓迎に肩をすぼめながら、新しい勤務先までの20分強を歩いた。もう年末休みに入っていたため建物の中には入れなかったが、外から窓越しに新しい仕事場を目に焼き付けて来た。

磐田駅は古い木造駅舎で、南口はまだなかった。北口の改札を出ると、すぐ左側に花壇とトイレがあった。今の駅舎の中にあるベーカリーも本屋も当時はまだなく、ファミリーマートの場所にはむしろ「売店」に近いローカルなコンビニがあった。駅前広場は今と同じタクシー乗り場とバス停だったが、くれたけインはまだなかった。駅を出た右前方にはパンやサンドイッチなどを売る洒落たガラス張りの店があり、二階では軽食やコーヒーを出していた。駅前通りを北へ行くとすぐにモスバーガーがあり、午後は高校生で賑やかだった。その先には郵便局もあってなかなか便利だった。駅前通りはまだ再開発の前で、つばさ証券の支店、古い和菓子屋、青果店、道具屋などが並んでいた。後日この道具屋で小さなテーブルを買い、店主にアパートまで届けてもらった。駅前から北へ横断歩道を渡ったところにはミスター・ドーナツがあり、朝食をとるために入ると、よく米国人の同僚と出くわした。

駅を出て線路沿いの道を西へ向かい、広い道を北へ1ブロック行くと、角に洋菓子を出すちょっと洒落た喫茶店があった。昼休みにはよく磐田信用金庫の職員が来ていた。広い道まで戻ってまた浜松方面へ10メートルほどのところに、長浜という古い鰻屋があった。通りがかりに外から覗くと老店主が鰻を焼いているのが見えた。いつか行ってみようと思っているうちに、何時の間にか閉店してしまった。

最後にこの駅を後にしたのは2010年11月15日。小春日和の穏やかな午後だった。病を得て休職中であったが、ここまで来る事ができるのか確かめたかった。だがそれはとても無理だと思い知らされた日だった。いつか又ここに来る事があるとすると、その時駅はどんな表情を見せているのだろう。そして今の磐田駅もあっという間にタイム・トンネルの彼方に飛び去って行くのだな、と思った。

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1954年・武蔵野市

【コーヒー・ブレーク】 

仕事を縮小して時間に余裕ができた機会に、昔懐かしい場所をあちこち散策してみることにした。そこに昔の面影が全く残っていなくても、長い間忘れていた記憶が鮮やかに蘇ることがある。

武蔵野市、春の穏やかな午後。小学校1-2年の頃毎日往復していた、バス停から学校の西門までの1キロ弱の道を四十五年振りに歩いてみた。当時と変わらないその閑静な住宅街の狭い道をバス停から学校に向かってゆっくり歩いて行くと、向こうから母校の制服を着た小さな男の子と女の子がのんびりと歩いて来るのが見えた。下校時刻なのだろう。この道を通学していた当時の私と同じぐらいの年頃の子供たちだ。女の子が前を、男の子がその少し後ろを歩いて来た。そしてその女の子がすれ違い様、私に

「後ろの男の子に用があるんで、呼んでくれる?」

と言ったのだ。なぜ自分で言わないのかな、と思いながら、私は男の子に

「ねえキミ、この子が何か用があるって言ってるよ」

と話しかけた。すると女の子が男の子に歩み寄り、

「一緒に帰ろう」

と誘った。ほほえましく思ってその男の子の顔を見た時、男の子も私の顔を見上げた。あれ、どこかで見た事のあるような子だな、と思ったが、二人の子供たちが一緒にバス停の方向へ歩き始めたので、私も学校の正門の方へ再び歩を進め始めた。その時、四十五年前の記憶が突然鮮やかに蘇ったのである。

小学校二年の時、同じクラスの一人の女の子に好意を寄せられていた。小生意気で大人びた感じの、友達のいない子だったが、こちらも学校ではほとんど口を利かない変わり者だったから気に入られたのだろう。帰る方向が途中まで同じだったが、疎ましくて一緒に帰ることはわざと避けていた。あの日もその女の子の後を少し離れて歩いていると、向こうから初老の男性が歩いてくるのが見えた。女の子がその人に歩み寄って何か言っていたが、そのまま横を通り過ぎようとした時、その人が私に

「ねえキミ、この子が何か用があるって言ってるよ」

と話しかけて来た。驚いてその人の顔を見上げた時、彼の私への視線に何だか懐かしい暖かさを感じたのだった。

そうだ。あの男の子は昔の私自身だ。そう確信して後ろを振り返ると、バス停はまだ遠いのに、もう二人の子供の姿はどこにも見えなかった。きっとタイム・トンネルの彼方に戻って行ったのだろう、と思った。四十五年前のあの時、私はきっとタイム・トンネルの入り口を覗いていたのだ。

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Smile

 Smileはチャーリー・チャップリンの作曲による、映画Modern times(1936)及びLimelight(1952)の中で使われた挿入歌。私が気に入っているのは見事な韻律に彩られたその後半である。

Light up your face with gladness

Hide every trace of sadness

Although a tear may be ever so near

That's the time you must keep on trying

Smile; what's the use of crying

You'll find that life is still worthwhile

If you'll just smile

 チャップリン(Charles Spencer Chaplin, 1889-1977)は笑いあり、涙ありの映画史上最も偉大な喜劇王と言われる。イギリスで生まれたが、小さいときに父がアル中でこの世を去り、母は病弱で非常に苦しい幼児期を送った。音楽で生計を立てていた母に代わって5歳でステ-ジに立って歌い、8歳の時には旅まわりの楽団の一員となって作曲を始めた。無声映画時代から数々の名作を残し、名声を得て1975年には英国政府より爵位(ナイト)を授与されている。

 私はとりたててチャップリンのファンというわけではないが、外国暮らしが長く外国人とのビジネス機会が多かった為、言葉以外のコミュニケ-ション手段に慣れざるを得なかった。そして沢山のスマイルに出会った。一人で下宿していたブルックリンでいつも朝飯を食べに行ったカフェの、朝から元気いっぱいのおねえさん。ボストンの郊外で車が故障し、ハイウェイで立往生していた時通り掛かりに助けてくれたサングラスに刺青のおにいさん。通訳の到着が30分遅れ、ひたすら乾杯とスマイルで座持ちをしたベトナム中央銀行副総裁との会食。そして何より素晴らしいのは、やはり家族のスマイルだ。それぞれのスマイルに勇気付けられる度に、チャップリンの「スマイル」の一節を思い出しては口ずさんだものだ。

 スマイルは初対面のぎこちなさも、頑なに閉ざされた心同士も溶かしてくれる。そして何よりも自分の心を暖かくしてくれる、お金のかからない特効薬だと思う。 

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2011年8月11日 (木)

菅直人の謎と55年体制

いよいよ菅首相退陣の日程が決まったようだ。菅については二つの謎がある。一つは、世論調査によると大多数が「脱原発」には賛成しているのに、それを提唱・推進しようとする菅への支持率が極端に低いのはなぜなのか。もう一つは自民党が、菅直人が総理である限り議案審議に協力しないが、菅総理が交代すれば協力の用意がある、と言うのはなぜなのか。その謎を解くキーワードは「55年体制」だ。

胎児が母の胎内でヒトの進化過程を再現するように、現在の民主党内には55年体制という遺伝子の残滓が息づいている。地域利権構造に連なる旧自由民主党の血を引く小沢一郎と、「北」利権構造に連なる旧日本社会党の流れを汲む菅直人だ。党内のパワー・バランスも、前者の2に対して後者が1という当時の議席比率に近い。55年体制における対立軸が今の民主党の中に生き残っており、これが次のように菅直人の二つの謎に関係している。

55年体制における旧自由民主党は、市場原理・自由競争原理に基づく経済の成長・発展を目指して来た。怠けていたキリギリスよりも頑張ったアリを厚遇する考え方だ。これに対して旧日本社会党は、競争を制約して社会的弱者の人権・福祉を擁護して来た。困っているキリギリスにはアリの蓄えを取上げて食い扶持を与える考え方である。両者の対立軸はアメリカにおけるリパブリカン(前者)とデモクラット(後者)によく似ている。そしてかつて学生運動の闘士であり、市民運動家として政治キャリアをスタートさせた菅直人の出自が、立ち位置が後者の中でも極左なのではないかという疑念を惹起しているのだ。菅はアリの汗の結晶を取上げてキリギリスに与え続けるのではないか。雇用主体である企業に対するさまざまな負担要求がとめどなく続き、国全体としての雇用水準を縮小させてしまうのではないか。こうした潜在的な懸念が世論調査や自民党の菅拒否に顕現していると考えられる。もはや地域利権も「北」利権も、かつてのような形で現存してはいない。だがその遺伝子の残滓が生きている限り菅=小沢戦争は終わらない。民主党は一つの整合的政策体系の下で一つにまとまる事が出来ない政党なのだ。

同じ理由から今の自民党も民主党に取って代わる政治力を発揮できていない。自民党もまた党内に55年体制の二つの遺伝子を並存させているのだ。そしてこれがわが国の議院内閣制が機能せず、財政も破綻してしまった最大の理由である。両党ともに政策よりも政権の座を優先してポピュリズム=ばら撒き競争を展開し、有権者がそれに踊らされて来た結果なのだ。政治を国民の手に取り戻すには、アリ党とキリギリス党がそれぞれの綱領において旗色(=めざす社会の姿)を具体的に明確化し、それと整合的な政策体系を構築して、総選挙を通じて国民の信を問う事だ。そうすれば議院内閣制がきちんと機能するようになる。そしてこうしたコンテクストにおける政界再編の成否が、日本経済がこのまま衰退してしまうのか、それともまた蘇る事が出来るのかを決める鍵になるのだろうと考える次第である。

【参考文献】

高村薫 「神の火」、「晴子情歌」、「新リア王」

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2011年5月13日 (金)

高村薫の原発廃絶論

原発廃絶論の裏にはイデオロギーの影がちらつき、原発容認論の周りには地域利権が臭う。だが高村薫はそのどちらをも一刀両断の下に切り捨てた。5月3日のNHK・News Watch 9に登場した高村薫は、原発の是非はこれまでイデオロギーの問題として議論されて来たが、純粋な科学技術としてのコンテクストにおいて議論すべきだ、とした上で、賠償も含めた莫大な事故コストと、日本が地震国であるという地政学上のリスクを理由に、原発の経済合理性を明快に否定したのだ。「神の火」と「新リア王」で原発問題を深く掘り下げ、原発を細部まで熟知している高村ならではの見事な切れ味だった。(関連して以下別ログも参照)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/12/post-588a.html

どんなリスク・マネジメント論のテキストにも最初のほうに書いてあるが、損害の原因となる事象のうちあらかじめ生起が予想されており、その損害の程度と確率が予測可能であり、事前の対策が可能であるものを「リスク」(Risk)、そうでないものを「不確実性」(Uncertainty)と言う。「リスク」はコントロールすることができるが、「不確実性」はコントロールが不可能である。すなわちリスクと期待リターンは連動するから、確率(信頼区間。通常、分散の平方根であるσを単位として2σ、3σなどのように表示する)を選択してリスクとリターンの組み合わせを決定すればよいのだ。もしリスクをゼロにしたければリスク・エクスポージャーをゼロにすればよいが、この場合の期待リターンはゼロとなる。ところが「不確実性」は信頼区間の外側で生起するから、コントロールすることが不可能であり、その損害を予測するにはストレス・テストによるほかない。また通常その損害規模は期間キャッシュフローの範囲に収まらず、ストックの取り崩し(コーポレートであれば純資産の取り崩し、国レベルでは国富の毀損や国民生活水準の切下げ)が避けられない。

リスク管理の基本は「不確実性」を「リスク」に変換してゆく事であり、それを可能にするのは技術進歩である。例えば巨大隕石の衝突は「不確実性」であるが、将来技術革新によって隕石の軌道を変える事が可能になれば、それが「リスク」に変わる。原発はこれまで期待リターンと信頼区間との兼ね合いでコントロール可能な「リスク」であると考えられて来たが、今回の福島の事故は、現在の科学技術水準の下では原発がコントロール不能な「不確実性」の領域にかなり足を突っ込んでしまっている事を証明した。だが巨大隕石の衝突と違って、原発の場合は損害を完全に避ける方法がある。言うまでもなくそれはリスク・エクスポージャーをゼロにする事、つまり原発の完全廃棄であり、それ以外の方法はない。チェルノブイリでは、飛び地とはいえ260キロ先まで永久居住放棄地となった。東京は福島原発から240キロ。もし炉の冷却に失敗すれば、福島の事故規模は1機だけの事故だったチェルノブイリを超える。来るべき東海地震のタイミングによっては、それは現実のシナリオになり得る。高村が指摘する通り、日本が地震国である以上、東海地震であろうと他の地震であろうと、次の大震災が来る前に全原発を廃止してしまわない限り、国そのものがメルトダウンする危険があるのだ。原発を存続させれば、我々の世代は将来の世代に対して背負い切れない量のリスクを負わせる事になる。

原発を全廃する場合、一つだけ注意しなければならない事がある。それは北朝鮮の例でも明白なように、原発がいつでも核兵器に転用できる技術だと言うことである。日本の原発がこれまで安全保障上戦争抑止力として機能してきたことは疑いなく、この抑止力は別の意味で国家の存続に関わっているから、放棄するわけには行かない。原発を廃絶し、なお核抑止力を維持するためにはどうすればよいのか。おそらくその答は日米安保条約の改訂、非核三原則の見直しだろう。だがそこに辿り着く前に国がメルトダウンしてしまわない事を、今は祈るばかりである。

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2010年4月22日 (木)

新冷血の連載が始まった

待望の高村薫の最新作「新冷血」の連載が始まったため、4月からサンデー毎日を買うようになった。まだ3回目だが、囲碁の序盤の石置きを思わせる筆を抑えたスタートは、「晴子」以降高村から離れて行った読者へのサービスなのか、あるいは日経新聞連載小説のあまり愉快ではなかったであろう経験からか、格段に口当たりが良い。これまでの作品の中ではレディ・ジョーカーの始まりに最も似ているように感じられた。多くの読者はどこで合田が登場するのか期待を膨らませているようだが、私自身は「太陽」発売時に「晴子」からの3部作を初めて読み、そのあと過去の長編に遡って行った新しい読者であるため、合田とは「太陽」(厳密には「新リア王」の終盤)で初対面であった事もあり、むしろ高村がこの口当たりの良いスタートから、「晴子」以降の長編3部作で提起した「自我と他者、もしくは自我と対象との関わり」という主題にどのように切り込んで行くのかが楽しみだ。今でも多くのアクセスを頂いている昨年12月のブログ「高村薫と村上春樹」(下記URL)で次回作の有得べき方向性について触れたが、「新冷血」の始まり方は、タイトルも含めてまさに期待通りだ。

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/12/post-588a.html

もう一つの興味深いポイントは「新冷血」における時代の描き方だ。高村は「照柿」や「晴子」以降の3部作で見事な仮想現実を構成して見せた。ところが「新冷血」に描かれようとしている世界は、著者自身や私の年代にとっては仮想現実かも知れないが、それが現在進行形の「現実」そのものである世代も現に存在している。こうした「考証の約束事」がない世界を描くのは高村にとって初めてではないだろうか。だとすると、「新冷血」は高村文学のPhase Ⅲの始まりを告げる、作者自身の思考や情念が初めて立ち現われる私小説的な要素を含んだ記念すべき作品になるかも知れない。そうなると、連載終了後大幅な改稿を経て単行本化される事を想定すれば、「原型」であるサンデー毎日の連載は切り取って保存しておきたくなる。

「新冷血」もまた、読者にとってかなり負荷の大きい作品になりそうだ。

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2010年2月12日 (金)

ギリシアの財政危機とユーロのポートフォリオ

キリスト教美術に関する12週連続の講演会を聞きに行っている。もちろん講師陣は全員錚々たる美術の専門家ばかりだが、この種の講演会で楽しいのは、美術とそれを育んだ時代の経済・社会構造との関わりについて新しい発見が出来る事だ。唯物史観を持ち出すほどの事ではないが、今週の講演会でロマネスクとゴシックが建築様式として峻別認識されたのはルネッサンス期であり、ゴシックは粗野なものを表す形容詞で、その語源はゴート族である、と知って目から鱗がまた一枚落ちた。ルネッサンスは単純な古代への回帰ではなく、ラテン族の末裔としてのイタリア人が、ゴート(=ゲルマン)族の価値体系や文化を拒否したという事だったのである。

民族や国民国家が自らのアイデンティティを必要とする時、「古き良き時代」の価値体系へ回帰が生じる。ルネッサンス以外にもこうした事例は多い。例えば宗教改革の本質は、ドイツ(=神聖ローマ帝国、ゲルマン族)の、カトリック教会と表裏一体であったフランスに対する反攻であった。さらに、プロテスタントが実はアリウス派の復権だったのではないか、という事が多くの研究者によって示唆されている。(この点について筆者は、文化人類学からの論考が必須だと考えている。)わが国でも、徳川幕藩体制を転覆した明治政府は新たな自前のアイデンティティ(=旗印)を必要としたため、廃仏毀釈を行なって神道を国家統合のイデオロギーとした。やはり「古き良き時代」の価値体系へ回帰したのである。

さて、ギリシアの財政危機がユーロロングの取り崩しを招き、世界同時株安の一因にもなっている。この事が一時的な欧州経済の停滞を招く可能性はあり、ユーロ自体も、多くの主権国家をカバーし続ける統一通貨としては限界が見えて来た。現実的なユーロの姿は、最終的にはユーロ・ファウンダー6ヶ国+英国をコアとして、外縁諸国がそれぞれの幅でユーロペグを運用する形になるのだろう。だがこの事が長期的なEU統合・拡大を阻害するとは思えない。なぜならEUの統合・拡大の本質は、世界最大の正教国であるロシアをも包含する大キリスト教世界への回帰であり、長期的には揺るぎのない歴史的潮流であるからだ。

翻ってわが国の民主党政権では、攘夷論(=米軍基地排斥)と開国論(=外国人参政権付与推進)が整合性のないままに同居し、経済政策では新古典派とケインジアンが与党内ポリティックスによって使い分けられている。首尾一貫した価値体系を持たない政権が国際資本市場で信認を得る事は難しい為、長期ポートフォリオは円投・ユーロロングが正解であろうと考えている。

参考:過去ログ「欧州とユーロ」

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/cat4427643/index.html

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2009年12月13日 (日)

高村薫と村上春樹

今年7月に「太陽を曳く馬」が出版されると、アマゾン本屋が「村上春樹の長編を買った人は高村薫の長編も買っている」と教えてくれた。これまで高村を読む機会はなかったが、最近この直木賞作家のメディアへのエクスポージャーが増加している事には気が付いていた。時々額に手を当てながら、理性と情念とが交じり合う中から慎重に言葉を選び抜いてゆく独特の語り口はミステリー作家というイメージからは程遠く、この人はどんな小説を書くのか、少なからぬ関心を抱いたところだった。ミステリー作家としての高村の愛読者の一部は「晴子情歌」以降の作品にかなり違和感を抱いているようだ。たしかに「晴子情歌」以降の作品はそれまでのものとは異質だ。しかし高村の長編を読んでみて分かったのは、高村にとってミステリーと純文学との境目はないのだ、という事である。ミステリーと純文学との間はグラデーション状に繋がっていて、高村はそのグラデーションの領域を自由に往き来している。こうしたグラデーションの領域こそが高村の真骨頂だと納得した。

「太陽を曳く馬」は三部作「晴子情歌」、「新リア王」に続く三部作の完結編である為、まず「晴子情歌」から読み始めた。ところがこの三部作を読み進むのは予期した以上に気の抜けない大仕事になった。村上春樹の長編はアトーナルで、しかも印象派の点描画のように多少ディテールを読み飛ばしても全体像を見失うことはないから、速読が可能だ。ところが高村の長編にはしっかりした調性がある上、田中一村が何万という数の砂浜の石の個性を一つひとつ描き分けるように、ディテールの一つひとつが精緻に作りこまれている。さらに、日常の営みのディテールが唯物史観、国家論、古典文学、現代美術、認識論、大脳生理学、精神病理学、仏教典などの多岐にわたる議論と深く結びついた形で描かれるから、読み飛ばしてしまうと失われるものがあまりにも大きくて、速読が不可能なのだ。もちろん現実にはマルクスを論じる漁船乗組員(晴子情歌)や、捜査上の必要から正法眼蔵全巻を読みこむ刑事(太陽を曳く馬)は少ないだろう。だが、物語の中ではマルクスや道元が日常の営みと緊密に結びつけられて語られるため、違和感どころか、読者も著者も知らない筈の世界や近過去が生々しく蘇るような懐かしささえ感じさせる。イデオロギーも政治も苦役も性欲も芸術も宗教も、日常生活が営まれるグラデーション領域の構成物としてそのディテールが精緻に描き出され、それらの一つひとつが、ちょうど山奥の木の葉に落下した一滴の雨が集まってせせらぎとなり、合流を重ねて渓流となるように、重なり合い、混じり合いながら、やがて時代と言う怒涛の大河を形成してゆく。

近代日本の百年を舞台とする長編三部作を通じて高村は何を伝えようとしたのか。ヒントは「晴子情歌」において漁船乗組員に唯物史観を語らせている点にある。おそらく高村は、唯物史観が説く上部構造と下部構造との間はグラデーション状に繋がっていて明確な境目がなく、その領域における人間の営みが集団意思を形成し、それぞれの時代の上部構造の形状と方向を規定して行くのではないか、という仮説に立ち、ディテールを徹底して描くことを通じてそれを検証ないし例示しようとしたのではないだろうか。人間の日常の営みの中には糧を得て個体の生命を維持するための営み、子孫を残すための種の保存の営み、そして社会集団の中で他の構成者に認知されるための営みが混在している。このうち生命維持の営みと種の保存の営みは、イカでも鰊でもサクラマスでも人間でも同じことだろう。だが社会集団を形成し、他者の存在を前提とする営みを行なうのは人間だけか。魚群を構成する全ての個体が、ある瞬間彼らにしかわからない外的刺激に一斉に反応して、突然一斉に方向を転換したり産卵行動をとったりするのは、一尾一尾は何も考えていなくとも、集団としての明確な意思が存在する事を表していよう。否、意思とまでは言えないとしても、一つの方向性は明らかに共有されていよう。だがこうした魚の集団行動は、畢竟個体の生命を種の保存という上位価値のために犠牲にする仕組みとも言えるだろう。では人間はどうか。人間も魚と同様、群の形態や方向性に関する集団意思を形成し、人類として種を保存する上での最適な価値体系とそれによって組成される上部構造のシステムを決めているのだろうか。高村はこの事を主として政治、芸術及び宗教という三つの領域について徹底的にディテールにこだわりながら、三部作の三時点比較によって考察して行く。

下部構造を有限な生存資源の配分システムと考えるなら、「晴子情歌」のそれは生存資源のアベイラビリティに大きな制約があり、その配分を専ら国家が行なうシステム。明治維新を出発点とするこの秩序が膨張し切って臨界点に達し、ついに崩壊に向かった時代が描かれる。「新リア王」の下部構造は、生存資源の配分が「民主主義」の枠組みの中で政治によって行なわれるシステム。敗戦を出発点とするこの秩序が55年体制の崩壊を経てバブルという臨界点に向かって暴走を始めた時代である。ここまでの時代は、人間の集団意思形成がその時代の価値体系を裏付けていた。だが「太陽を曳く馬」の時代になると整合的な価値体系が見えなくなる。この時代における下部構造は、生存資源の配分システム自体を不要にした「豊かさ」だ。だから政治がパフォーマンスとなり、選挙が人気投票となり、宗教がビジネスとなり、芸術が他者の存在を必要としなくなり、自我と他者との関わり方が曖昧になり、「生」だけでなく「死」でさえもその意味そのものを失おうとしているのだろう。ああいや、下部構造が消滅した以上、上部構造自体が不要になったのは当然なのだ、とひとまず言っておこう。(すっかり高村調)そこで高村は読者にこう問いかける。魚が群を形成するのは、種の保存という上位価値のために個体の生命を犠牲にするためだろう。では人間はどうか。「晴子情歌」と「新リア王」に描かれた死にはそれぞれの価値体系における意味付けが与えられていたが、「太陽を曳く馬」には既存の価値体系からは説明不可能な死が描かれている。こうした人間の死は「種の保存」以外のなんらかの上位価値を守る為なのか。或いは下部構造としての「豊かさ」故に生存資源の配分システムが不要となり、価値体系そのものが存在しなくなって、人間は他者の存在を前提とする集団意思形成行動すらも放棄したのだろうか。答えが与えられないまま物語は終わる。

高村が追うもう一つのテーマは、それぞれの時代における自我と他者との関わり方である。人間が社会を構成し、集団意思を形成することが出来るのは、自我と他者が関わりを持つからだ。そしてその関わりはそれぞれの個体の属性を媒介として成立して来た。だがその関わり方もまた、それぞれの時代の下部構造によって規定される。「晴子情歌」の時代には生存資源の配分が専ら国家に委ねられていたから、自我が自らの属性を自律的に選択する事には大きな限界があった。だから晴子と彰之の関わりは、自律的選択の結果ではない親子というQuasi属性によって緩やかに媒介される形で描かれている。次の「新リア王」の時代には生存資源の配分が「民主主義」によって行なわれたから、自我が属性を選択する上での自律性が飛躍的に拡大し、自我と他者との関わりが主として政治家、その妻、秘書、官僚、企業家、僧侶などの属性によって媒介されている。榮は政治家としての属性を放擲しても尚、親としてではなく政治家として彰之と向き合い、彰之もまた子ではなく僧侶という属性を媒介として榮と向き合った。両者の関わりは、互いの属性を詳細に解説し合い、理解し合おうとする事で成立していた。ところが「太陽を曳く馬」の時代には生存資源の配分原理そのものが不要になったために、属性の自律的選択はそれまで以上に可能であるのもかかわらず、属性が自我と他者との関わりを媒介する機能を失ったのである。親子というQuasi属性でさえ秋道は必要としなかったのだ。こうしたコンテクストを背景として、高村は現代における自我と他者との関係を徹底的に問い詰めて行く。

自我が属性を放擲する事と他者を必要としなくなる事は、ニワトリと卵の関係に似ている。知人の哲学者が言った。

自分は哲学者、そしておまえ(筆者である私)は経済学者という属性を演じている。では属性がなくなった時のおまえこそ本当の自分か。そう思う人は多いかも知れないが、そんな自分はいくら探しても見つからないぞ。「自分探し」の旅に出る若者や定年退職した老人は、実は新しい属性を探しているのだよ。

高村自身はどう考えているのだろう。松本清張生誕100年記念特番に出演した高村は、清張作品の登場人物から属性を取り去ってみるとそこに作者自身の顔があらわれる、とコメントした。属性を離れた自我は存在し得る、と言っているのだ。だがそこに現れる顔=自我とは一体何なのだろう。のっぺらぼうの板に穴があいているようなものか。さらに、他者の存在を前提とせず、自我の領域内で自己完結する営みは、例えば芸術や宗教において存在し得るのか。高村は繰り返し問い詰めて行くが、答は示唆しないまま筆を置く。

だがその一方で、高村は三作ともに最後の場面で彰之に属性という法衣をかなぐり捨てさせ、情動を発露させる。そして情動が描かれるのは三作全編を通じて最後の場面だけだ。もっとも「太陽を曳く馬」の最後は情動というよりも横隔膜と腹筋の痙攣だが、それもサクラマスにはない事である以上、読者としては見過ごすわけには行かないのである。情動は属性の代わりになるのか。情動は他者との関わりを媒介するのか。その場合の関わりとはどのようなものなのか。それは次回作において描かれるのだろうか。高村薫が執筆中の次回作の主人公はフリーターやニートであるらしい。だとすると高村は、属性が希薄な人々を取上げることで、現代において属性なくして存在する自我とはいかなる自我なのか、そしてかかる自我の他者とのかかわり方はどのようなものなのかというテーマに正面から挑むつもりに違いない。次回作が待たれる。

アマゾン本屋はなぜ「村上を買った人は高村も買っている」と言ってきたのか。それはおそらく「1Q84」も「太陽を曳く馬」もカルト教団を扱っているからだろうが、その扱い方はまことに対照的だ。村上がカルト教団をアプリオリに存在する不条理としてアトーナルに描いて行くのに対し、高村はカルト教団の存在理由を、調性にこだわりながらこれでもか、これでもかと問い詰める。だが高村も村上も最後には読者を放り出すから、長編大作をようやく読み終えた読者は、その結末の先に一体何があるのかを自分で考えなければならず、読了は「終わり」ではなく「始まり」なのだ。この「あとを引く」感覚に読者は魅了されて、ついついアマゾン本屋の思惑に乗ってしまうのだろう。

【太陽を曳く馬・こんな配役で見てみたい】

榮(回想):北大路欣也

晴子(回想):樋口可南子

初江(回想):深津絵里

優(回想):役所広司

彰之:滝田 栄

秋道:市川海老蔵

和哉:阿部 寛

明円:中村梅雀

高木:辰巳琢郎

岩谷:柴田恭兵 

岡崎:唐沢寿明

合田:榎木孝明

道元A:市川團十郞

道元B:奥田瑛二

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