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2009年12月13日 (日)

高村薫と村上春樹

今年7月に「太陽を曳く馬」が出版されると、アマゾン本屋が「村上春樹の長編を買った人は高村薫の長編も買っている」と教えてくれた。これまで高村を読む機会はなかったが、最近この直木賞作家のメディアへのエクスポージャーが増加している事には気が付いていた。時々額に手を当てながら、理性と情念とが交じり合う中から慎重に言葉を選び抜いてゆく独特の語り口はミステリー作家というイメージからは程遠く、この人はどんな小説を書くのか、少なからぬ関心を抱いたところだった。ミステリー作家としての高村の愛読者の一部は「晴子情歌」以降の作品にかなり違和感を抱いているようだ。たしかに「晴子情歌」以降の作品はそれまでのものとは異質だ。しかし高村の長編を読んでみて分かったのは、高村にとってミステリーと純文学との境目はないのだ、という事である。ミステリーと純文学との間はグラデーション状に繋がっていて、高村はそのグラデーションの領域を自由に往き来している。こうしたグラデーションの領域こそが高村の真骨頂だと納得した。

「太陽を曳く馬」は三部作「晴子情歌」、「新リア王」に続く三部作の完結編である為、まず「晴子情歌」から読み始めた。ところがこの三部作を読み進むのは予期した以上に気の抜けない大仕事になった。村上春樹の長編はアトーナルで、しかも印象派の点描画のように多少ディテールを読み飛ばしても全体像を見失うことはないから、速読が可能だ。ところが高村の長編にはしっかりした調性がある上、田中一村が何万という数の砂浜の石の個性を一つひとつ描き分けるように、ディテールの一つひとつが精緻に作りこまれている。さらに、日常の営みのディテールが唯物史観、国家論、古典文学、現代美術、認識論、大脳生理学、精神病理学、仏教典などの多岐にわたる議論と深く結びついた形で描かれるから、読み飛ばしてしまうと失われるものがあまりにも大きくて、速読が不可能なのだ。もちろん現実にはマルクスを論じる漁船乗組員(晴子情歌)や、捜査上の必要から正法眼蔵全巻を読みこむ刑事(太陽を曳く馬)は少ないだろう。だが、物語の中ではマルクスや道元が日常の営みと緊密に結びつけられて語られるため、違和感どころか、読者も著者も知らない筈の世界や近過去が生々しく蘇るような懐かしささえ感じさせる。イデオロギーも政治も苦役も性欲も芸術も宗教も、日常生活が営まれるグラデーション領域の構成物としてそのディテールが精緻に描き出され、それらの一つひとつが、ちょうど山奥の木の葉に落下した一滴の雨が集まってせせらぎとなり、合流を重ねて渓流となるように、重なり合い、混じり合いながら、やがて時代と言う怒涛の大河を形成してゆく。

近代日本の百年を舞台とする長編三部作を通じて高村は何を伝えようとしたのか。ヒントは「晴子情歌」において漁船乗組員に唯物史観を語らせている点にある。おそらく高村は、唯物史観が説く上部構造と下部構造との間はグラデーション状に繋がっていて明確な境目がなく、その領域における人間の営みが集団意思を形成し、それぞれの時代の上部構造の形状と方向を規定して行くのではないか、という仮説に立ち、ディテールを徹底して描くことを通じてそれを検証ないし例示しようとしたのではないだろうか。人間の日常の営みの中には糧を得て個体の生命を維持するための営み、子孫を残すための種の保存の営み、そして社会集団の中で他の構成者に認知されるための営みが混在している。このうち生命維持の営みと種の保存の営みは、イカでも鰊でもサクラマスでも人間でも同じことだろう。だが社会集団を形成し、他者の存在を前提とする営みを行なうのは人間だけか。魚群を構成する全ての個体が、ある瞬間彼らにしかわからない外的刺激に一斉に反応して、突然一斉に方向を転換したり産卵行動をとったりするのは、一尾一尾は何も考えていなくとも、集団としての明確な意思が存在する事を表していよう。否、意思とまでは言えないとしても、一つの方向性は明らかに共有されていよう。だがこうした魚の集団行動は、畢竟個体の生命を種の保存という上位価値のために犠牲にする仕組みとも言えるだろう。では人間はどうか。人間も魚と同様、群の形態や方向性に関する集団意思を形成し、人類として種を保存する上での最適な価値体系とそれによって組成される上部構造のシステムを決めているのだろうか。高村はこの事を主として政治、芸術及び宗教という三つの領域について徹底的にディテールにこだわりながら、三部作の三時点比較によって考察して行く。

下部構造を有限な生存資源の配分システムと考えるなら、「晴子情歌」のそれは生存資源のアベイラビリティに大きな制約があり、その配分を専ら国家が行なうシステム。明治維新を出発点とするこの秩序が膨張し切って臨界点に達し、ついに崩壊に向かった時代が描かれる。「新リア王」の下部構造は、生存資源の配分が「民主主義」の枠組みの中で政治によって行なわれるシステム。敗戦を出発点とするこの秩序が55年体制の崩壊を経てバブルという臨界点に向かって暴走を始めた時代である。ここまでの時代は、人間の集団意思形成がその時代の価値体系を裏付けていた。だが「太陽を曳く馬」の時代になると整合的な価値体系が見えなくなる。この時代における下部構造は、生存資源の配分システム自体を不要にした「豊かさ」だ。だから政治がパフォーマンスとなり、選挙が人気投票となり、宗教がビジネスとなり、芸術が他者の存在を必要としなくなり、自我と他者との関わり方が曖昧になり、「生」だけでなく「死」でさえもその意味そのものを失おうとしているのだろう。ああいや、下部構造が消滅した以上、上部構造自体が不要になったのは当然なのだ、とひとまず言っておこう。(すっかり高村調)そこで高村は読者にこう問いかける。魚が群を形成するのは、種の保存という上位価値のために個体の生命を犠牲にするためだろう。では人間はどうか。「晴子情歌」と「新リア王」に描かれた死にはそれぞれの価値体系における意味付けが与えられていたが、「太陽を曳く馬」には既存の価値体系からは説明不可能な死が描かれている。こうした人間の死は「種の保存」以外のなんらかの上位価値を守る為なのか。或いは下部構造としての「豊かさ」故に生存資源の配分システムが不要となり、価値体系そのものが存在しなくなって、人間は他者の存在を前提とする集団意思形成行動すらも放棄したのだろうか。答えが与えられないまま物語は終わる。

高村が追うもう一つのテーマは、それぞれの時代における自我と他者との関わり方である。人間が社会を構成し、集団意思を形成することが出来るのは、自我と他者が関わりを持つからだ。そしてその関わりはそれぞれの個体の属性を媒介として成立して来た。だがその関わり方もまた、それぞれの時代の下部構造によって規定される。「晴子情歌」の時代には生存資源の配分が専ら国家に委ねられていたから、自我が自らの属性を自律的に選択する事には大きな限界があった。だから晴子と彰之の関わりは、自律的選択の結果ではない親子というQuasi属性によって緩やかに媒介される形で描かれている。次の「新リア王」の時代には生存資源の配分が「民主主義」によって行なわれたから、自我が属性を選択する上での自律性が飛躍的に拡大し、自我と他者との関わりが主として政治家、その妻、秘書、官僚、企業家、僧侶などの属性によって媒介されている。榮は政治家としての属性を放擲しても尚、親としてではなく政治家として彰之と向き合い、彰之もまた子ではなく僧侶という属性を媒介として榮と向き合った。両者の関わりは、互いの属性を詳細に解説し合い、理解し合おうとする事で成立していた。ところが「太陽を曳く馬」の時代には生存資源の配分原理そのものが不要になったために、属性の自律的選択はそれまで以上に可能であるのもかかわらず、属性が自我と他者との関わりを媒介する機能を失ったのである。親子というQuasi属性でさえ秋道は必要としなかったのだ。こうしたコンテクストを背景として、高村は現代における自我と他者との関係を徹底的に問い詰めて行く。

自我が属性を放擲する事と他者を必要としなくなる事は、ニワトリと卵の関係に似ている。知人の哲学者が言った。

自分は哲学者、そしておまえ(筆者である私)は経済学者という属性を演じている。では属性がなくなった時のおまえこそ本当の自分か。そう思う人は多いかも知れないが、そんな自分はいくら探しても見つからないぞ。「自分探し」の旅に出る若者や定年退職した老人は、実は新しい属性を探しているのだよ。

高村自身はどう考えているのだろう。松本清張生誕100年記念特番に出演した高村は、清張作品の登場人物から属性を取り去ってみるとそこに作者自身の顔があらわれる、とコメントした。属性を離れた自我は存在し得る、と言っているのだ。だがそこに現れる顔=自我とは一体何なのだろう。のっぺらぼうの板に穴があいているようなものか。さらに、他者の存在を前提とせず、自我の領域内で自己完結する営みは、例えば芸術や宗教において存在し得るのか。高村は繰り返し問い詰めて行くが、答は示唆しないまま筆を置く。

だがその一方で、高村は三作ともに最後の場面で彰之に属性という法衣をかなぐり捨てさせ、情動を発露させる。そして情動が描かれるのは三作全編を通じて最後の場面だけだ。もっとも「太陽を曳く馬」の最後は情動というよりも横隔膜と腹筋の痙攣だが、それもサクラマスにはない事である以上、読者としては見過ごすわけには行かないのである。情動は属性の代わりになるのか。情動は他者との関わりを媒介するのか。その場合の関わりとはどのようなものなのか。それは次回作において描かれるのだろうか。高村薫が執筆中の次回作の主人公はフリーターやニートであるらしい。だとすると高村は、属性が希薄な人々を取上げることで、現代において属性なくして存在する自我とはいかなる自我なのか、そしてかかる自我の他者とのかかわり方はどのようなものなのかというテーマに正面から挑むつもりに違いない。次回作が待たれる。

アマゾン本屋はなぜ「村上を買った人は高村も買っている」と言ってきたのか。それはおそらく「1Q84」も「太陽を曳く馬」もカルト教団を扱っているからだろうが、その扱い方はまことに対照的だ。村上がカルト教団をアプリオリに存在する不条理としてアトーナルに描いて行くのに対し、高村はカルト教団の存在理由を、調性にこだわりながらこれでもか、これでもかと問い詰める。だが高村も村上も最後には読者を放り出すから、長編大作をようやく読み終えた読者は、その結末の先に一体何があるのかを自分で考えなければならず、読了は「終わり」ではなく「始まり」なのだ。この「あとを引く」感覚に読者は魅了されて、ついついアマゾン本屋の思惑に乗ってしまうのだろう。

【太陽を曳く馬・こんな配役で見てみたい】

榮(回想):北大路欣也

晴子(回想):樋口可南子

初江(回想):深津絵里

優(回想):役所広司

彰之:滝田 栄

秋道:市川海老蔵

和哉:阿部 寛

明円:中村梅雀

高木:辰巳琢郎

岩谷:柴田恭兵 

岡崎:唐沢寿明

合田:榎木孝明

道元A:市川團十郞

道元B:奥田瑛二

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