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2009年6月 6日 (土)

私の1Q84:村上春樹とシェーンベルク

別ログ「1Q84の続編はどんな展開になるのだろう」もご参照ください。)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/06/post-af3c.html

 Financial Timesの見出しには英国の歴史、古典文学からビートルズ、最近のポップアートに至るまで、多様な出典の駄洒落がちりばめられている。近松の戯曲も、原文で読もうとすると万葉集や古今和歌集、能楽などの素養がなければ駄洒落一つ分からず、筋は読めても近松の「味」を楽しむことは出来ない。そして村上春樹も読者に多少の感性と想像力を要求する。村上作品の結末は読者がそれぞれの感性と想像力を駆使して自分で考えるのが基本だが、世界の終り-ねじまき鳥-カフカと、年代が下るに従ってだんだん村上は親切になり、結末をそれとなく示唆してくれるようになった。ところが読者は1Q84で再び突き放される事になったのである。いずれ1Q84の続編が出るのではないかと期待する読者が多いようだが、続編を読みたい読者はそれぞれ自分のバージョンを書かなければならないのであり、村上が書いてくれることはあり得ない。1Q84は他の村上作品以上に、決してトニックに解決することのない転調を次々に重ねながら次第にアトーナリティの渦に読者を巻き込んで行く。

 NYでポリーニのコンサートに行った時のこと。第一部はショパン、第二部はシェーンベルクだったが、第一部が終わると殆どの聴衆は帰ってしまった。第二部は不思議な連帯感に包まれて始まり、残された聴衆のスタンディング・オベーションで終わった。シェーンベルクの音楽は完全にアトーナルであり、音感を頼りに暗譜することが出来ないから、ポリーニも譜面を見ながら弾いた。村上文学にもオーソドックスなケーデンスはなく、物語全体がアトーナルに構成されて行くが、1Q84は単にアトーナルというだけではない。カンディンスキーのような豊かな色彩、三十二分休符の微かな息遣いも含めて一つひとつの小節の隅々までを歌い尽くす夏川りみの唱法のような完璧なディテール、そしてキース・ジャレットのソロピアノのような、さまざまな水源から湧き出た渓流が合流を重ねて怒涛の大河となり、ついに巨大な瀑布となって落下して行く息もつかせぬ圧倒的な構成力が、これまでの長編の中でも最高のレベルに達しており、至高の村上ワールドに導いてくれる。

1984年、私は大阪にいた。市場原理主義を振りかざす米国が日本に強要した日米円ドル委員会がもたらす規制緩和から新しいビジネスを創ろうと思い、関西に本社がある松下、シャープ、三洋、住金、住電工、久保田、ダイキン、道修町の武田、塩野義、田辺、また大手商社の大阪支社などのトレジャラー達と、連日朝から深夜までミーティングを繰り返していたが、ついに3月に倒れて一ヶ月間の入院生活を送った。あの頃、過労とアルコールのせいで月が二つ見えた事があったような気がしないでもない。だが今、GMが破綻・国有化されて、米国自身が市場原理主義を放棄してしまった。日米円ドル委員会も事実上「なかったこと」にせざるを得なくなるだろう。

私たちは2009年の「現在」から1984年以降の「過去」を実際に書き換えようとしている。そしてその結末は、それぞれが自分で考えなければならないのだ。

(追記:その後2009年9月、村上春樹はBook3を執筆中であることを明らかにした。)

【映画化された場合の配役のイメージ】

青豆:菅野美穂

天吾:西島秀俊

ふかえり:宮﨑あおい

深田保:江守徹

老婦人:白川由美

タマル:赤井英和

戎野:山本圭

あゆみ:倖田李梨

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