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2009年6月11日 (木)

1Q84の続編はどんな展開になるのだろう

 ハリー・ポッターでは巻が進むにつれて以前の伏線が解き明かされ、意外な展開に結びついて行くが、1Q84には幾つもの謎や伏線が未解決のまま残されているため、続編を期待する読者が多いようだ。もしも1Q84の続編が書かれるとすると、それはどのような物語になるのだろう。村上春樹が残してくれたヒントを手がかりに想像してみた。

(1)羊の役割

羊は村上文学では特別な意味を持つ存在であり、単にリトル・ピープルの通路になったというだけではいかにも扱いが軽すぎる。目の見えない羊がいること。少女がその世話をしていること。そして羊の死。この三つの条件が揃った時、三桁の数字を暗証番号に合わせるとカチッと開くトランクの鍵のように、リトル・ピープルの通路が開ける。だがなぜこの三つの条件が必要なのか?後編では通路が羊でなければならない必然性が明らかになる。

(2)カラス・ゴムの木・金魚

ストーリーの節目で何度も登場するカラスは、1Q84では何の意味づけも行なわれないが、続編ではカラスが登場していた意味が明かされ、思わせぶりな伏線のまま終わったゴムの木と金魚も再登場して、青豆の「復活」に大きな役割を果す。

(3)NHK集金人の傷害事件

後編では加害者がNHKの集金人であった事が単なる偶然ではなかった事が明かされ、また被害者の大学生も重要なキャラクターとして登場する。

(4)天吾の実母の運命

天吾があえて知ろうとしなかった実母の運命が、実は現在の天吾に深く関わっていたこと、青豆と天吾が実は生まれた時から共通の運命を背負っていたことが明らかにされる。

(5)ふかえりのドウタ

ドウタはまだ教団にいるのか?物語に出てくる生理のないふかえりこそドウタではないのか?誰もが抱いた疑問に後編で答えが与えられる。

(6)1Q84とハリー・ポッター

この二つの物語には似通ったところがある。一つはリトル・ピープルとふかえりが、ハリー・ポッターとヴォルデモートのように多くを共有しながらも、またそれが故に「正」と「反」の関係にある事だ。だが1Q84ではハリー・ポッターと異なり、そうなのだという事実が示されているだけで、なぜそうなったのかの説明がないままに終わっている。後編ではその理由・背景が解き明かされ、その中でリトル・ピープルとは何者なのかが明らかになる。

もう一つの共通点は、どちらも物語が主人公の意識の中で展開している事だ。1Q84では、他言した事のない自分だけの世界や、思っているだけで口には出していない事が相手に伝わっている。それは相手との会話が自分の意識の中で行なわれているからだろう。月が二つ見える1Q84の世界も、きっと自分の意識の中だけにあるバーチュアリティにすぎず、タクシー・ドライバーが言ったように「現実はあくまでも一つ」なのだ。ハリー・ポッターでは、ハリーは亡き両親と再会して出生の秘密を知る不思議な体験をする。「両親との再会は現実の出来事だったのか、それとも自分の意識の中だけで起きたことなのか」と問いかけるハリーに対する答えは「もちろん自分の意識の中で起きた事だ。だが、だからといってそれが真実でないという事にはならない」であった。(原文しか読んでいないので、この部分がどう訳されているかは分からないが。)だとすると、現実の青豆はきっとまだ首都高の渋滞の中にいる筈だ。

こうしていろいろと想像を巡らすにつれてますます後編が読みたくなる。だが、村上春樹は常に物語の結末を読者の想像力に任せるから、1Q84の続編を書いてくれることはないだろう。続編を読みたい読者は、村上が残してくれたヒントを手がかりとして自分のバージョンの続編を書かなければならないのである。

(追記:その後2009年9月、村上春樹はBook3を執筆中であることを明らかにした。)

(前ログ「私の1Q84:村上春樹とシェーンベルク」もご参照ください。)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/06/post-5c2f.html

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2009年6月 6日 (土)

私の1Q84:村上春樹とシェーンベルク

別ログ「1Q84の続編はどんな展開になるのだろう」もご参照ください。)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/06/post-af3c.html

 Financial Timesの見出しには英国の歴史、古典文学からビートルズ、最近のポップアートに至るまで、多様な出典の駄洒落がちりばめられている。近松の戯曲も、原文で読もうとすると万葉集や古今和歌集、能楽などの素養がなければ駄洒落一つ分からず、筋は読めても近松の「味」を楽しむことは出来ない。そして村上春樹も読者に多少の感性と想像力を要求する。村上作品の結末は読者がそれぞれの感性と想像力を駆使して自分で考えるのが基本だが、世界の終り-ねじまき鳥-カフカと、年代が下るに従ってだんだん村上は親切になり、結末をそれとなく示唆してくれるようになった。ところが読者は1Q84で再び突き放される事になったのである。いずれ1Q84の続編が出るのではないかと期待する読者が多いようだが、続編を読みたい読者はそれぞれ自分のバージョンを書かなければならないのであり、村上が書いてくれることはあり得ない。1Q84は他の村上作品以上に、決してトニックに解決することのない転調を次々に重ねながら次第にアトーナリティの渦に読者を巻き込んで行く。

 NYでポリーニのコンサートに行った時のこと。第一部はショパン、第二部はシェーンベルクだったが、第一部が終わると殆どの聴衆は帰ってしまった。第二部は不思議な連帯感に包まれて始まり、残された聴衆のスタンディング・オベーションで終わった。シェーンベルクの音楽は完全にアトーナルであり、音感を頼りに暗譜することが出来ないから、ポリーニも譜面を見ながら弾いた。村上文学にもオーソドックスなケーデンスはなく、物語全体がアトーナルに構成されて行くが、1Q84は単にアトーナルというだけではない。カンディンスキーのような豊かな色彩、三十二分休符の微かな息遣いも含めて一つひとつの小節の隅々までを歌い尽くす夏川りみの唱法のような完璧なディテール、そしてキース・ジャレットのソロピアノのような、さまざまな水源から湧き出た渓流が合流を重ねて怒涛の大河となり、ついに巨大な瀑布となって落下して行く息もつかせぬ圧倒的な構成力が、これまでの長編の中でも最高のレベルに達しており、至高の村上ワールドに導いてくれる。

1984年、私は大阪にいた。市場原理主義を振りかざす米国が日本に強要した日米円ドル委員会がもたらす規制緩和から新しいビジネスを創ろうと思い、関西に本社がある松下、シャープ、三洋、住金、住電工、久保田、ダイキン、道修町の武田、塩野義、田辺、また大手商社の大阪支社などのトレジャラー達と、連日朝から深夜までミーティングを繰り返していたが、ついに3月に倒れて一ヶ月間の入院生活を送った。あの頃、過労とアルコールのせいで月が二つ見えた事があったような気がしないでもない。だが今、GMが破綻・国有化されて、米国自身が市場原理主義を放棄してしまった。日米円ドル委員会も事実上「なかったこと」にせざるを得なくなるだろう。

私たちは2009年の「現在」から1984年以降の「過去」を実際に書き換えようとしている。そしてその結末は、それぞれが自分で考えなければならないのだ。

(追記:その後2009年9月、村上春樹はBook3を執筆中であることを明らかにした。)

【映画化された場合の配役のイメージ】

青豆:菅野美穂

天吾:西島秀俊

ふかえり:宮﨑あおい

深田保:江守徹

老婦人:白川由美

タマル:赤井英和

戎野:山本圭

あゆみ:倖田李梨

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2009年6月 1日 (月)

GM: Chapter 11が象徴するパラダイムの転換

 GMの連邦破産法11条(チャプター 11)申請は、経済体制及び民間ビジネスにおけるそれぞれのパラダイムの転換を象徴している。

経済体制:政経分離の意味が逆転した。これまでの政経分離は社会主義体制の国家(例えば中国)が経済に市場原理を導入する事を意味した。ポストGMでは資本主義体制の国家(例えば米国)が経済原理を社会主義化するという意味に変わる。圧倒的な競争力を背景に、市場原理主義を標榜してなりふり構わず世界中の市場を席巻しようとするのは、今や米国ではなく中国であり、財政資金を使って競争力の弱い国内産業を保護しようとするのは中国ではなく米国なのだ。もはや政経分離と言うよりも政経分裂と言うべきだろう。

民間ビジネス:トヨタの戦略車種に例えると、民間のビジネスモデルが「レクサス」型から「プリウス」型に変わった。新生クライスラーもGMも、もはやレクサス型車種で勝負することはない。街で見かけるプリウスの走る姿は颯爽としているが、レクサスは既に図体を持て余して息切れしているように見える。もちろんこのパラダイムの転換は自動車産業だけではなくあらゆる産業に共通している。

個人的には在米5年間、GMオールズモビル系統のΩ(オメガ)に乗っていた。米国では小型車に分類される車種だが、クラウンより少し大きかった。シボレー系統のヒット車種だったノヴァの上級モデルだが、新車の時からイグニッションの調子が悪く、いくら修理しても直らなかった。5年間主として通勤や買い物に使ったが、休暇を取ってNYからモントリオール、ケベックまで行ったこともあった。帰国間近になってようやくリコールがかかり、やっと直して中古市場で購入価格の4割で売って帰国した。GM車には郷愁があるが、そうした郷愁に拘っていては次世代のビジネス・パラダイムの構築は絶対にできないだろうと考えている。

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