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2009年5月30日 (土)

篠原尚之の本音

 「世界経済危機と東アジアの経済・金融協力」と題する国際シンポジウムが今日ホテルニューオータニで開催された。東アジア共通通貨創設へのロードマップ作りを模索せんとする、又これか、というマンネリ化した論題であったが、篠原尚之財務官の特別講演で、別の意味で極めて興味深いシンポジウムとなった。

研究者たちの発表に先立ってゲスト・スピーカーとして登壇した篠原尚之は、東アジアにおいて共通通貨をジャスティファイする条件が整っているとは誰も考えていない、ユーロでさえ本当に最適通貨圏なのか疑問が出ている、モノの話が先でカネはその後の話だ、と言い放ったのだ。これから発表する錚々たる研究者たちにいきなり冷水を浴びせたのである。ACUの母体であるADBの経験者とは思えない意外な発言であった。政治家も実務家もプレスもいない学者ばかりのシンポなので、リラックスして本音が出たのだろう。実際その後行なわれた研究発表は、モノ(実体経済)でなはなくカネ(金融)の議論ばかりで、ACUを持ち上げたりACUにリンクした管理フロートを提唱したりと、所詮協調介入の変形の話に終始したから、篠原の先制パンチの鮮やかさが一層際立った。 それにしても、この手の東アジア共通通貨構想は財務官僚が主導して学識者にジャスティフィケーションを作らせているのだとばかり思っていたので、いつからこんなに変わったのか、少なからず驚いた。又同時に、官僚には本質が見えているのだな、と安心させてくれたシンポジウムでもあった。

ホテルニューオータニには久しぶりに行ったが、相変わらず動線がめちゃくちゃで、会議場の使い勝手の悪さがちっとも変わっていないな、と思った。

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2009年5月 9日 (土)

経済危機はもう終わったのか

 ダウ欧州50が久しぶりに懐かしさすら覚える2000台を回復し、日米ともに株価が急反騰している。ドルもいったん100円台を回復し、その後大きく崩れる気配はない。経済危機はもう終わったのか。リーマンショック直後の2008919日、日経平均はまだ11,900円、ドル円は105円台であったが、榊原英資はBloombergの取材に対して、年末までに円相場は100円を突破、日経平均株価は1万円の大台を割り込み、経済危機は長期化すると予想した。この「予言」は早くもドル円で一ヶ月強、日経平均で3週間後に実現し、日・米の株価も企業収益も経済指標も底なしの下り坂を転がり落ちた。日本の連休中にドルも株価も多少回復したとは言え、まだリーマンショック直後の水準には程遠い。今後の方向はブル、ベアどちらなのだろうか。

正常な経済状況の下では市場は均衡回復的に変動する。価格が上昇(下落)すれば需要が減少(増加)し、価格が均衡水準まで下落(上昇)する。ところがパニックが起ると市場変動が均衡破壊的となり、価格が上昇(下落)すればするほど逆に需要(供給)が大きくなり、価格が上値(下値)のメドがつかないままにどこまでも上昇(下落)して行く。かつてオイルショックが狂乱物価をもたらした時の日用品や食料品の価格、リーマンショック後の株価などがその典型だ。こうした均衡破壊的市場変動をもたらすパニックは、損失の規模が予見できない為に起る。

損失の原因には損害の程度と確率を計数的に把握できる「リスク」と、把握できない「不確実性(Uncertainty)」がある。「リスク」とは例えば「今後何年間の間に何%の確率で起きる」と予見されていて、その影響が何度もシミュレーションされ、対策も進められている東海地震。「不確実性」とは例えば全く予知も対策も行われていなかった阪神淡路大震災だ。リスク管理の第一歩は「不確実性」を「リスク」に変えてゆくことなのである。「リスク」が支配する市場では予想損失の大きさと確率がσ(シグマ、標準偏差)を用いて計数的に把握され、管理されているから、価格が均衡回復的に変動する。一方「不確実性」が支配する市場では予想損失の見当がつかないから、価格が均衡破壊的に変動する。長い間CDSはσで潜在損失の程度を管理できる「リスク」であると考えられてきた。ところがリーマンショック後、この「リスク」がσ管理の限界を飛び出した「不確実性」に転化してしまい、均衡破壊的な株価の下落をもたらしたのである。今後の方向を見定める上で、「不確実性」が「リスク」に変わったのか、そして市場変動が不可逆的な均衡破壊型から「上がれば下がり下がれば上がる」という均衡回復型に変わったのかの見極めがキーポイントとなる。

そこで再び日本の連休期間中の出来事をチェックしてみると、クライスラーがチャプター11を申請したことでビッグ3の今後の「筋道」が見え、また米国金融機関のストレス・テスト(潜在損失査定)が終わり、こちらも資本増強の「筋道」が見えた事が大変重要ではないかと思われる。損失の性質が、限度の見えない「不確実性」からσ管理が可能な「リスク」に変化する兆候が見えたのだ。もちろん経済危機はまだ終わっていない。株価は今後も経済ファンダメンタルズの変化を反映して乱高下するだろう。しかしながら、市場変動自体が均衡回復型に戻ってゆくとすれば、今後の価格下落局面ではこれまでとは逆に「売り」ではなく「買い」が正解、ということになる。

市場価格の変動が均衡破壊型から均衡回復型に変わるとすると、残るリスクファクターは何か。それはハイパーインフレである。各国ともなりふり構わず財政支出を拡大する為、財政赤字の辻褄を合わせる方法はもはやハイパーインフレしかない。パイパーインフレが顕在化するとき、市場変動は再びパニッキーな均衡破壊型に戻るだろう。ハイパーインフレはいつか必ずやって来ると覚悟して長期のポートを組まなければならないのである。

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阿修羅像の視線

 テレビの興福寺展特集番組で、レポーターの女優が阿修羅像を見て「とてもいいお顔をしていらっしゃいますねー」と感心していたが、阿修羅像の視線は何を語っているのだろうか。どの仏像もそれが彫られた時代におけるミッションを背負っているから、京都や奈良に出掛けたり仏像を見たりする時には、仏教の時代背景を少し理解しておくと、阿修羅像の手が古代インド舞踊の動きをしている事なども分かり、楽しみが倍加する。

おおまかに言うと、日本に伝来して以降の仏教には、現代まで続く四つの大きな流れがある。奈良仏教(南都六宗)、平安仏教(密教系)、鎌倉仏教(禅宗系)、その他の宗派(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗)だ。話題の阿修羅像を擁する奈良の興福寺は唐招提寺や東大寺と並ぶ南都六宗の一つで、日本の仏教系列の中では最も古いグループに属する。8世紀・平城京時代の仏教は鎌倉期以降の仏教と違って、未だ民衆を信仰によって組織化するというミッションを背負っておらず、もっぱら朝廷・貴族の信仰の対象として教義の修養と仏像の造形美を追い求めていた。従ってこの時期の仏像は、阿修羅像を含めて民衆の信仰の対象として造られたものではない。

9世紀の平安期になると最澄・空海が唐から密教をもたらす。最澄が天台宗(比叡山)を、空海が真言宗(高野山)を興し、特に真言宗は性愛の歓びを肯定・賛美する新興宗教として朝廷から熱狂的な支持を受けた。(なお「弘法大師」とは空海の死後85年も経ってからつけられた、民衆へのアドレスという新たなミッションを負わされた名前であり、宗教人としての空海とは全く別の人格であることに注意が必要だ。)密教は平安貴族のイデオロギー(=レジャー)としてローマ法王庁にも似た強大な力を誇り、後世の禅宗・浄土宗などのルーツとなると同時に、次第に自らも武装した政治的独立組織へと変化して行く。

やがて武士が勃興し、12世紀に鎌倉幕府が成立すると、武家社会が朝廷に対抗して自前のアイデンティティーを持つ必要が生じたため、武家の仏教として禅宗が興る。中でも栄西が宋から伝えた臨済宗が幕府のデファクト・スタンダードとして重用された。因みに幕府が朝廷を牽制する為に敷いた「京都五山」はすべて臨済宗である。この時期、幕府は武家社会において徴税・徴用・徴兵などのシステムを確立する必要に迫られていた為、鎌倉を頂点とする幕府の政体に武家が集結する体制の象徴として臨済宗が位置づけられた。(この点は中世ヨーロッパにおいてカトリック教区が行政単位として機能していたことと共通する面がある。)また禅宗の興隆と軌を一にして、平安貴族の瀟洒な宮廷文化とは対照的な、ストイックでシンプルな様式美が武家社会のキーワードとなる。建築では書院造り、庭園では枯山水。精神性を尊ぶ能や茶の湯が急速に浸透したのもこの為だ。

一方、同じく禅宗である曹洞宗系寺院の一部は幕府の仏教戦略に組み込まれたが、総本山である永平寺・総持寺は幕府と一線を画し、地方武士や農民に浸透する道を選んで裾野を広げた。このほか平安末期から鎌倉時代にかけて法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が興り、次第に巨大勢力へと成長して行く。いずれも民衆の救済を標榜し、民衆にアドレスして広く浸透を図る点で、それまでの南都六宗や密教系宗派とは全く異質であり、仏像の印象もかなり異なっている。

やがて応仁の乱を経て戦国時代が到来し、まず信長が覇権を確立する。信長は旧体制と結びついて巨大な武装組織と化していた仏教宗派を警戒するあまり比叡山を焼き、アンチテーゼとしてキリシタンを是認した。秀吉も当初これを踏襲したが、キリシタン宣教師達の真の意図が欧州列強による日本の植民地化にある事に気付き、弾圧に転じた。家康もこれを踏襲したが、仏教政策に関しては、この時期主要な各宗派が既にそれぞれの基盤を強固に確立していた為、特定宗派の突出を避けるバランス・オブ・パワーに徹した。家康による本願寺の東西分割はその好例である。安定した徳川長期政権の下、仏教各宗派も共存共栄の時代を享受した。

奈良貴族と南都六宗、平安貴族と密教、武家社会と禅宗。各時代の政体がそれぞれ自前の宗派を希求してきたが、明治維新によって誕生した新政府もその例外ではあり得ず、やはり自前の旗印を必要とした。王政復古という建前から、またタオイズムと融合した生活規範として既に民衆の間に広く定着していた神道がその役割を負わされたのはいわば当然の成り行きであり、一時は仏教をも吸収して軍政のイデオロギーとして機能した。だが第二次大戦後の日本の「民主」政体化と経済発展による所得水準の上昇により、それまでの仏教を含むあらゆる宗教イデオロギーが不要となり、一部の宗派は政治団体や実質的営利団体への、他の多くは冠婚葬祭の執行機関としての途を歩むこととなったのである。現代の日本に生きる我々が阿修羅像を見て「とてもいいお顔をしていらっしゃいますねー」としか言えなくなってしまったのはこの為なのだ。

阿修羅の視線は民衆に向けられてはいない。その手は千手観音とは違って民衆に差し伸べられているのではなく、古代インド舞踊の手の動きを表しているのだ。そしてその「とてもいいお顔」が表しているのは、阿修羅が日本に伝来する以前の出自・・・ヒンドゥー世界、ガンダーラ世界、さらに古代ギリシャ世界の造形美なのである。

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