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2005年10月 1日 (土)

EU統合の行方(その8)

(その7から続く)

キリスト教は欧州統合の楔となり得るのか。その手掛かりとして、現代ヨーロッパの原型の形成にキリスト教がどのように関わっていたのかを見て来ている。「その7」では古代ローマ帝国でキリスト教が国教化されたのはカトリック教区を行政単位として統治機構に組み込むためであったことを明らかにした。今回は古代ヨーロッパが中世へと変質して行く過程にカトリック教会の修道院活動が新たな経済単位として深く関与していた事を説明する。

都市共同体同士の契約関係としての「点と線」で構成されていた古代ローマ帝国の崩壊と、都市が農村を後背地として持ち、「面」として広がり始める中世への移行は、農業生産性の著しい上昇に支えられたものであった。既に見た通り古代ローマの経済は技術進歩による生産性向上ではなく専ら生産要素の投入量(とりわけ奴隷労働)に依存していた為、奴隷の供給が絶たれるとすぐに行詰まり、崩壊した。その後乱立した多くのゲルマン部族国家がフランク王国メロヴィング朝、カロリング朝に統一され、カール大帝の戴冠を経て現在のドイツ・フランス・イタリアの原型が形成されて行く過程で、都市の後背地としての農村の成長が始まる。

まず8世紀に現在の北フランス地域の人口が急増する。森林が開墾され、作付面積が著しく拡大して技術進歩による生産性の向上が始まったのだ。こうした変化を可能にしたのが、農地を三分割して輪作を行い、三分の一の土地を順番に休ませる事によって農地の生産力を維持する、三圃農法と言われる技術である。三圃農法はカール戴冠(800年)前後に急速に拡大したことが知られている。つまりフランク王国カロリング朝による西ローマ帝国再統一の時期に、こうした農業生産性の急上昇が起こっていたのだ。森林を開墾したり農地を三分割して計画的に輪作を行う為には農作業の共同化が必要である。そしてこうした農作業の共同化が著しく進んだのは世俗領主領ではなく修道院領であった。

「その4」で説明した通り、7世紀以降ローマ・カトリック教会が修道院の教区組織を通じて勢力を拡大して行く。修道院における信仰・修行のあり方としては、当初は東方教会の流れを汲む聖コルンバヌスが目指した、山岳地などの厳しい自然環境の中での苦行による修道が重視されたが、次第に聖ベディクトゥス派による、修道士が修道院において共同体を形成して労働と信仰の修道院生活を送る戒律が主流となった。そしてこの共同労働を重視する考え方こそ、上述の三圃農法普及のエンジンであった。10世紀初頭にクリュニー修道会が設立され、欧州に国境を超えて800近い修道院ネットワークを構築する。だが商業的成功を重視するあまりクリュニー修道会は修道院長に聖職者ではなく俗人を起用するといった、どこかで聞いた事のあるような愚挙を繰り返したあげく頽廃し、衰退する。これに代って、12世紀初頭に設立されたシトー修道会が綱紀を糺し、修道院生活を信仰と労働という原点に回帰させることによってさらに勢力を伸張して行ったのだ。

以上に見た通り、「点と線」の古代ローマ帝国から「面」の中世への転換にはローマ・カトリック教会が重要な役割を果していた。行政単位としての教区と経済単位としての修道院ネットワークの展開を通じて、ローマ・カトリック教会は国境を超えた組織を確立し、欧州全体にとっての「求心力」となって行ったのである。そして忘れてならないのはこうした中央集権的な、統制の利いたローマ・カトリック教会の組織が育ったのがクリュニー・シトー両修道会の本拠であるフランスであったという事実である。つまり中世を楕円になぞらえる時、楕円構造の二つの中心とされる教権と帝権は、実はローマ教皇をコントロールした中央集権のフランスと、皇帝を選挙で選ぶ神聖ローマ帝国(ドイツ)のことなのである。

次回は、こうして欧州全体の求心力となったキリスト教の中世における展開を、「十字軍」及び「教皇庁のアビニョン移転」をキーワードとして追いかけてみる事としたい。(その9に続く)

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