(その8から続く)
欧州は更なる統合に向かうのか、それとも分解するのか。その鍵は欧州の共通項であるキリスト教が欧州統合の楔となり得るのかどうかだ。前回までのブログでは、「点と線」の古代ヨーロッパの「面の中世」への転換に際して、ローマ・カトリック教会が行政単位としての教区と経済単位としての修道院ネットワークの展開を通じて国境を超えた組織を確立し、欧州全体にとっての「求心力」となって行ったことを見てきた。今回は中世ヨーロッパ世界がフランスにコントロールされた教権と、選挙で選ばれた神聖ローマ皇帝(ドイツ)の帝権との緊張関係を軸に展開して行った過程を辿る。キーワードは「十字軍」及び「教皇庁のアビニョン移転」である。
まず十字軍について見てみよう。1089年、教皇ウルバヌス2世に組織されたフランス十字軍がスペインへ遠征する。その後聖地エルサレム奪還を目指して8回にわたって十字軍が組成されるのだが、それぞれの指揮官の顔ぶれは次の通りである。
第1回(1096-):ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン)、弟のブーローニュ伯ボードワン、トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジル、南イタリアのタラント公ボヘモンド・ド・タラント、ノルマン騎士タンクレード・ド・オートヴィル。第1回十字軍の主な指揮官はほとんどがフランスの諸侯であった。
第2回(1147-):フランス王ルイ14世、ドイツ王コンラート3世
第3回(1189-):フランス王フィリップ2世、英国王リチャード1世、ドイツ王フリードリヒ1世
第4回(1202-): モンフェラ侯ボニファチオ2世、フランドル伯ボードワン9世
第5回(1217-):エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ(フランス人)
第6回(1228-):ドイツ王フリードリヒ2世
第7回(1248-):フランス王ルイ9世
第8回(1270-):アンジュー伯シャルル・ダンジュー(フランス王ルイ8世の末子)
このように十字軍はフランス主導のヨーロッパ連合軍であった。十字軍とはフランス=教権を中核とし、欧州全体に聖地エルサレム奪還を目指す求心力を及ぼした運動であったことがわかる。ドイツが「是」とした欧州憲法条約批准をフランス国民が「否」とするに至ったトルコのEU加盟をめぐる両国の国民感情の相違は、キリスト教徒とイスラム教との対決の原点である十字軍の時代にまで遡ることが出来るのである。
次に「ローマ教皇のアビニョン幽囚」と言われるエピソードを紹介しよう。最後の第8回十字軍がエルサレム奪回に失敗したあと、フランスではフィリップ4世(1285年即位)の下で王権の中央集権体制が一段と強化され、14世紀には教皇庁がアビニョンに移転する。フランスによる教権のコントロールが一段と進んだのだが、決してフランスが力づくで教皇をアビニョンに幽囚したわけではない。1309年にフランス人のクレメンス5世が教皇に選出されるが、ルネッサンス前夜のイタリアでは各都市国家が力をつけはじめており、イタリアにおける教皇領の政情が不安定であったため、クレメンス5世はフランスからローマへの移動を断念した。この結果教皇庁は1377年までフランスのアビニョンに置かれる事になったのである。そしてアビニョン時代の教皇庁では行政文書の統制、裁判制度、財政の統制などの諸制度とそれを支える官僚制の徹底的な整備が行われ、ローマ・カトリック教会自体の国境を超えた中央集権化が著しく進展した。10世紀のクリュニー修道会、12世紀のシトー修道会、12世紀から13世紀にかけて8回も組成された十字軍、そして14世紀の教皇庁のアビニョン移転。こうした経緯を経てローマ・カトリック教会は国境を超えた欧州の求心力の中核としての地位を確立したのである。
その後ドイツでは宗教改革が起こり、南部を除いてプロテスタント化されてゆく。そして既にこのブログで見て来た通り、プロテスタント対カトリックの抗争がドイツ対フランス、帝権対教権の緊張関係と重なり合いつつ時代は近世へと進んで行くのだが、決して忘れてならないのは、欧州の求心力としてのキリスト教が中世においてイスラム教徒との抗争の過程で形成されたという事実である。次回はいよいよ最終回として、これまでに見てきた欧州における求心力としてのキリスト教についての総まとめを行いつつ、英国のユーロ採用の可能性を中心にEU統合の行方について考えて行く。(その10に続く)
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