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2005年9月 2日 (金)

EU統合の行方(その3)

(その2から続く)

【余談】ある読者から「このブログには波田陽区の強い影響がある」とのご指摘を頂いた。考えてみると確かにその通りで、私の講義や講演のスタイルは昔からConventional Wisdomをひっくり返して見せて「残念!」と決めるパターンが多い。ただ「拙者は…」と自分を斬るところまでは出来ていないかもしれない。波田陽区さんはバラエティー番組で「あんたは美人の幽霊。すぐに消えないでね」と言われた割にはよく頑張っている。このブログもお蔭様でアクセスがどんどん増えているので、是非波田陽区さんにあやかって消えずに頑張りたい。

さて、本題。

EUの求心力の象徴であるアルザスとその中心都市ストラスブールは、過去どのような遠心力に弄ばれてきたのか。そしてそれはキリスト教の展開とどのように重なり合っていたのか。これが今回のテーマである。まず始めに簡単にアルザスの歴史をまとめておこう。アルザスはもともとガリア(ケルト)の土地であったが、ローマ帝国の所領となったあとゲルマン人が浸透してきた。ローマ帝国が東西に分裂して西ローマ帝国が崩壊したあと、キリスト教に改宗したフランク王国カロリング朝が再統一を果し、紀元800年にカール大帝(フランス名はシャルルマーニュ)が皇帝として戴冠。その後フランク王国は三分割されて現在のドイツ・フランス・イタリーの原型が出来る。この時アルザスは東フランク(後に神聖ローマ帝国=ドイツ)の領土となり、1354年にはアルザス地方の主要10都市が集まって自由地区(Decapole)が形成されるが、1648年、30年戦争(カトリック対プロテスタントの宗教戦争としての性格に加え、欧州での覇権確立を目指すハプスブルク王朝と、これを阻止せんとする反ハプスブルク勢力との戦争という面もあった)の講和条約であるウエストファリア条約により、アルザス地方は初めてルイ14世(太陽王、在位1643~1715)の下でフランス領となる。その後フランス革命・ナポレオン戴冠を経て1870年~1871年にはプロイセン・フランス間で普仏戦争があり、プロイセンが勝利。このためフランスはフランクフルト条約によりアルザス・ロレーヌの大部分を割譲させられた。だが第一次世界大戦のあと、1919年のヴェルサイユ条約によりアルザスは再びフランスに併合される。ところが1940-1944年の第二次世界大戦ではアルザスは一転ナチス・ドイツの支配下に。ようやく1944年11月にフランス軍がストラスブールをドイツから取り戻し、戦後はフランス領として現在に至っている。この間アルザスではドイツに徴兵されてフランスと戦った同じ市民が次の戦争ではフランス兵としてドイツと戦ったり、また同じ家族の親子・兄弟が敵・味方に分れて兵士として戦うといった悲劇が繰り返された。

このようにアルザスは第二次大戦終結までに独・仏の間を3往復し、欧州分裂の遠心力の象徴であった。そして次に見て行く通り、こうしたアルザスの歴史はキリスト教の展開とも重なり合っているのである。カトリックの国・フランスにあって、神学部にプロテスタント学科が設置されているのはパリ大学以外ではストラスブール大学だけであるという事実が、アルザスという土地のキリスト教との複雑な関わりを表わしている。そして、「その1」で触れたように一般には欧州の求心力として位置付けられるキリスト教が、アルザスの歴史の中では逆に遠心力として働いたことがわかる実例を次に紹介する。一口にキリスト教と言っても、大雑把に見ると三つの教派に分れる。まず西方教会(ローマン・カトリック)と東方教会(ビザンツ)が袂を分かち、次いで西方教会からは宗教改革を経てプロテスタント(ユグノー)が分離する。そしてストラスブールには、この三つの教派すべてを経てきた誠に興味深い教会があるのだ。 (その4に続く)

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