2011年8月11日 (木)

菅直人の謎と55年体制

いよいよ菅首相退陣の日程が決まったようだ。菅については二つの謎がある。一つは、世論調査によると大多数が「脱原発」には賛成しているのに、それを提唱・推進しようとする菅への支持率が極端に低いのはなぜなのか。もう一つは自民党が、菅直人が総理である限り議案審議に協力しないが、菅総理が交代すれば協力の用意がある、と言うのはなぜなのか。その謎を解くキーワードは「55年体制」だ。

胎児が母の胎内でヒトの進化過程を再現するように、現在の民主党内には55年体制という遺伝子の残滓が息づいている。地域利権構造に連なる旧自由民主党の血を引く小沢一郎と、「北」利権構造に連なる旧日本社会党の流れを汲む菅直人だ。党内のパワー・バランスも、前者の2に対して後者が1という当時の議席比率に近い。55年体制における対立軸が今の民主党の中に生き残っており、これが次のように菅直人の二つの謎に関係している。

55年体制における旧自由民主党は、市場原理・自由競争原理に基づく経済の成長・発展を目指して来た。怠けていたキリギリスよりも頑張ったアリを厚遇する考え方だ。これに対して旧日本社会党は、競争を制約して社会的弱者の人権・福祉を擁護して来た。困っているキリギリスにはアリの蓄えを取上げて食い扶持を与える考え方である。両者の対立軸はアメリカにおけるリパブリカン(前者)とデモクラット(後者)によく似ている。そしてかつて学生運動の闘士であり、市民運動家として政治キャリアをスタートさせた菅直人の出自が、立ち位置が後者の中でも極左なのではないかという疑念を惹起しているのだ。菅はアリの汗の結晶を取上げてキリギリスに与え続けるのではないか。雇用主体である企業に対するさまざまな負担要求がとめどなく続き、国全体としての雇用水準を縮小させてしまうのではないか。こうした潜在的な懸念が世論調査や自民党の菅拒否に顕現していると考えられる。もはや地域利権も「北」利権も、かつてのような形で現存してはいない。だがその遺伝子の残滓が生きている限り菅=小沢戦争は終わらない。民主党は一つの整合的政策体系の下で一つにまとまる事が出来ない政党なのだ。

同じ理由から今の自民党も民主党に取って代わる政治力を発揮できていない。自民党もまた党内に55年体制の二つの遺伝子を並存させているのだ。そしてこれがわが国の議院内閣制が機能せず、財政も破綻してしまった最大の理由である。両党ともに政策よりも政権の座を優先してポピュリズム=ばら撒き競争を展開し、有権者がそれに踊らされて来た結果なのだ。政治を国民の手に取り戻すには、アリ党とキリギリス党がそれぞれの綱領において旗色(=めざす社会の姿)を具体的に明確化し、それと整合的な政策体系を構築して、総選挙を通じて国民の信を問う事だ。そうすれば議院内閣制がきちんと機能するようになる。そしてこうしたコンテクストにおける政界再編の成否が、日本経済がこのまま衰退してしまうのか、それともまた蘇る事が出来るのかを決める鍵になるのだろうと考える次第である。

【参考文献】

高村薫 「神の火」、「晴子情歌」、「新リア王」

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2011年5月13日 (金)

高村薫の原発廃絶論

原発廃絶論の裏にはイデオロギーの影がちらつき、原発容認論の周りには地域利権が臭う。だが高村薫はそのどちらをも一刀両断の下に切り捨てた。5月3日のNHK・News Watch 9に登場した高村薫は、原発の是非はこれまでイデオロギーの問題として議論されて来たが、純粋な科学技術としてのコンテクストにおいて議論すべきだ、とした上で、賠償も含めた莫大な事故コストと、日本が地震国であるという地政学上のリスクを理由に、原発の経済合理性を明快に否定したのだ。「神の火」と「新リア王」で原発問題を深く掘り下げ、原発を細部まで熟知している高村ならではの見事な切れ味だった。(関連して以下別ログも参照)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/12/post-588a.html

どんなリスク・マネジメント論のテキストにも最初のほうに書いてあるが、損害の原因となる事象のうちあらかじめ生起が予想されており、その損害の程度と確率が予測可能であり、事前の対策が可能であるものを「リスク」(Risk)、そうでないものを「不確実性」(Uncertainty)と言う。「リスク」はコントロールすることができるが、「不確実性」はコントロールが不可能である。すなわちリスクと期待リターンは連動するから、確率(信頼区間。通常、分散の平方根であるσを単位として2σ、3σなどのように表示する)を選択してリスクとリターンの組み合わせを決定すればよいのだ。もしリスクをゼロにしたければリスク・エクスポージャーをゼロにすればよいが、この場合の期待リターンはゼロとなる。ところが「不確実性」は信頼区間の外側で生起するから、コントロールすることが不可能であり、その損害を予測するにはストレス・テストによるほかない。また通常その損害規模は期間キャッシュフローの範囲に収まらず、ストックの取り崩し(コーポレートであれば純資産の取り崩し、国レベルでは国富の毀損や国民生活水準の切下げ)が避けられない。

リスク管理の基本は「不確実性」を「リスク」に変換してゆく事であり、それを可能にするのは技術進歩である。例えば巨大隕石の衝突は「不確実性」であるが、将来技術革新によって隕石の軌道を変える事が可能になれば、それが「リスク」に変わる。原発はこれまで期待リターンと信頼区間との兼ね合いでコントロール可能な「リスク」であると考えられて来たが、今回の福島の事故は、現在の科学技術水準の下では原発がコントロール不能な「不確実性」の領域にかなり足を突っ込んでしまっている事を証明した。だが巨大隕石の衝突と違って、原発の場合は損害を完全に避ける方法がある。言うまでもなくそれはリスク・エクスポージャーをゼロにする事、つまり原発の完全廃棄であり、それ以外の方法はない。チェルノブイリでは、飛び地とはいえ260キロ先まで永久居住放棄地となった。東京は福島原発から240キロ。もし炉の冷却に失敗すれば、福島の事故規模は1機だけの事故だったチェルノブイリを超える。来るべき東海地震のタイミングによっては、それは現実のシナリオになり得る。高村が指摘する通り、日本が地震国である以上、東海地震であろうと他の地震であろうと、次の大震災が来る前に全原発を廃止してしまわない限り、国そのものがメルトダウンする危険があるのだ。原発を存続させれば、我々の世代は将来の世代に対して背負い切れない量のリスクを負わせる事になる。

原発を全廃する場合、一つだけ注意しなければならない事がある。それは北朝鮮の例でも明白なように、原発がいつでも核兵器に転用できる技術だと言うことである。日本の原発がこれまで安全保障上戦争抑止力として機能してきたことは疑いなく、この抑止力は別の意味で国家の存続に関わっているから、放棄するわけには行かない。原発を廃絶し、なお核抑止力を維持するためにはどうすればよいのか。おそらくその答は日米安保条約の改訂、非核三原則の見直しだろう。だがそこに辿り着く前に国がメルトダウンしてしまわない事を、今は祈るばかりである。

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2010年4月22日 (木)

新冷血の連載が始まった

待望の高村薫の最新作「新冷血」の連載が始まったため、4月からサンデー毎日を買うようになった。まだ3回目だが、囲碁の序盤の石置きを思わせる筆を抑えたスタートは、「晴子」以降高村から離れて行った読者へのサービスなのか、あるいは日経新聞連載小説のあまり愉快ではなかったであろう経験からか、格段に口当たりが良い。これまでの作品の中ではレディ・ジョーカーの始まりに最も似ているように感じられた。多くの読者はどこで合田が登場するのか期待を膨らませているようだが、私自身は「太陽」発売時に「晴子」からの3部作を初めて読み、そのあと過去の長編に遡って行った新しい読者であるため、合田とは「太陽」(厳密には「新リア王」の終盤)で初対面であった事もあり、むしろ高村がこの口当たりの良いスタートから、「晴子」以降の長編3部作で提起した「自我と他者、もしくは自我と対象との関わり」という主題にどのように切り込んで行くのかが楽しみだ。今でも多くのアクセスを頂いている昨年12月のブログ「高村薫と村上春樹」(下記URL)で次回作の有得べき方向性について触れたが、「新冷血」の始まり方は、タイトルも含めてまさに期待通りだ。

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/12/post-588a.html

もう一つの興味深いポイントは「新冷血」における時代の描き方だ。高村は「照柿」や「晴子」以降の3部作で見事な仮想現実を構成して見せた。ところが「新冷血」に描かれようとしている世界は、著者自身や私の年代にとっては仮想現実かも知れないが、それが現在進行形の「現実」そのものである世代も現に存在している。こうした「考証の約束事」がない世界を描くのは高村にとって初めてではないだろうか。だとすると、「新冷血」は高村文学のPhase Ⅲの始まりを告げる、作者自身の思考や情念が初めて立ち現われる私小説的な要素を含んだ記念すべき作品になるかも知れない。そうなると、連載終了後大幅な改稿を経て単行本化される事を想定すれば、「原型」であるサンデー毎日の連載は切り取って保存しておきたくなる。

「新冷血」もまた、読者にとってかなり負荷の大きい作品になりそうだ。

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2010年2月12日 (金)

ギリシアの財政危機とユーロのポートフォリオ

キリスト教美術に関する12週連続の講演会を聞きに行っている。もちろん講師陣は全員錚々たる美術の専門家ばかりだが、この種の講演会で楽しいのは、美術とそれを育んだ時代の経済・社会構造との関わりについて新しい発見が出来る事だ。唯物史観を持ち出すほどの事ではないが、今週の講演会でロマネスクとゴシックが建築様式として峻別認識されたのはルネッサンス期であり、ゴシックは粗野なものを表す形容詞で、その語源はゴート族である、と知って目から鱗がまた一枚落ちた。ルネッサンスは単純な古代への回帰ではなく、ラテン族の末裔としてのイタリア人が、ゴート(=ゲルマン)族の価値体系や文化を拒否したという事だったのである。

民族や国民国家が自らのアイデンティティを必要とする時、「古き良き時代」の価値体系へ回帰が生じる。ルネッサンス以外にもこうした事例は多い。例えば宗教改革の本質は、ドイツ(=神聖ローマ帝国、ゲルマン族)の、カトリック教会と表裏一体であったフランスに対する反攻であった。さらに、プロテスタントが実はアリウス派の復権だったのではないか、という事が多くの研究者によって示唆されている。(この点について筆者は、文化人類学からの論考が必須だと考えている。)わが国でも、徳川幕藩体制を転覆した明治政府は新たな自前のアイデンティティ(=旗印)を必要としたため、廃仏毀釈を行なって神道を国家統合のイデオロギーとした。やはり「古き良き時代」の価値体系へ回帰したのである。

さて、ギリシアの財政危機がユーロロングの取り崩しを招き、世界同時株安の一因にもなっている。この事が一時的な欧州経済の停滞を招く可能性はあり、ユーロ自体も、多くの主権国家をカバーし続ける統一通貨としては限界が見えて来た。現実的なユーロの姿は、最終的にはユーロ・ファウンダー6ヶ国+英国をコアとして、外縁諸国がそれぞれの幅でユーロペグを運用する形になるのだろう。だがこの事が長期的なEU統合・拡大を阻害するとは思えない。なぜならEUの統合・拡大の本質は、世界最大の正教国であるロシアをも包含する大キリスト教世界への回帰であり、長期的には揺るぎのない歴史的潮流であるからだ。

翻ってわが国の民主党政権では、攘夷論(=米軍基地排斥)と開国論(=外国人参政権付与推進)が整合性のないままに同居し、経済政策では新古典派とケインジアンが与党内ポリティックスによって使い分けられている。首尾一貫した価値体系を持たない政権が国際資本市場で信認を得る事は難しい為、長期ポートフォリオは円投・ユーロロングが正解であろうと考えている。

参考:過去ログ「欧州とユーロ」

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/cat4427643/index.html

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2010年1月 4日 (月)

2010年は「意図せざる国際化」元年

昨年8月のブログ「総選挙後のポートフォリオ」で予想した「意図せざる小さな政府」が、不幸にも2010年度当初予算案で早くも実現してしまった。

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/08/post-66b3.html

2010年は日本が財政のプライマリーバランス均衡へのロードマップを半永久に放棄し、その帰結として「意図せざる国際化」が始まった年として記憶される事になるだろう。以下その理由を概説する。

昨年12月25日に発表された2010年度一般会計歳入歳出概算によると、予算規模は92兆円。民主党政権発足後100日で早くも揮発油税暫定税率撤廃のマニフェストを放棄し、公債金(国債発行額)を44兆円に抑えこんでなお、プライマリーバランスはマイナス24兆円だ。だが問題はその先にある。歳入・歳出どちらの面でもプライマリーバランス均衡化の目処が全く立たないのだ。

まず歳出面では、流行語にまでなった事業仕分でさえ、多目に見積もっても歳出予算の2%程度しか削減できず、来年度以降は公共事業を含めてもう削れる項目がないどころか、歳出項目は増加要因ばかりなのだ。最大の歳出項目である社会保障費については説明を要しない。人口構成の老齢化は経済政策ではどうにもならないのだ。さらに「対等な日米関係」を標榜して在日米軍基地縮小を進める以上は自前の安全保障体制にシフトする必要があるから、防衛費の膨張が避けられない。ただこうした財政の硬直化は目新しいものではなく、一般会計の歳出規模は2001年以降大きくは変わっていない。2001年以降大きく変動して来たのは歳入サイド(税収)であり。これがプライマリーバランス悪化の主因なのだ。歳入サイドに改善の目処はあるのだろうか。

税収のうち法人税は、景気循環による一時的なアップダウンは別として、次のような構造的要因から長期的に増加が見込めなくなった。即ち、近い将来CO2排出枠のキャップ・アンド・トレードと環境税の導入が避けられず、また登録型派遣が禁止される見通しとなった事で、製造業の生産拠点の海外移転が加速する。そうなると経済合理性で動く企業部門が今後中国バブルの恩恵を享受する可能性は大きいが、それは国内の雇用にも税収にもつながらない。さらに大手企業の間でも、国内税制の行方次第では、EU企業のように本社機能も含めた思い切った多国籍化に踏み切る流れが止まらなくなる。いずれにしても、30兆円を超えているGDPの海外流出が名目GDPの10%を越えるのは時間の問題となろう。企業部門の「意図せざる国際化」(国外逃避)が起こるのだ。

家計部門はどうか。国内雇用が頭打ちとなる以上、所得税の増収は期待できない。さらに、相続税・固定資産税の増税が避けられないばかりでなく、仙谷行政刷新相が迂闊にも年末の読売テレビ番組で、高齢者を対象とする資産課税の導入に言及したのだ。そうなれば、今後日本でも個人資産の途上国型キャピタル・フライト(国外逃避)が止められない流れとなり、家計資産も「意図せざる国際化」に向かう。さらに、政治家にとってのトラウマである消費税引上げは依然としてタブー視されているが、仮に5%引き上げて10%にしたところで増収効果はせいぜい10兆程度にすぎず、プライマリーバランスの回復さえままならない。あとは税外収入であるが、有事におけるバッファーである埋蔵金は、一度手をつければなくなってしまうのが道理であり、2010年度は言わば生命保険を解約してキャッシュを何とか確保したわけであるが、もはや有事の備えはない。そうなると、財政の公債金(国債発行)依存度がますます高くならざるを得ないのは明らかだ。

それでも、これまでは家計部門の高貯蓄のおかげで何とか国債が消化出来た。だがそれにも限界が見えて来たのである。昨年9月末現在、政府負債残高の家計資産に対する比率が史上最高の66%まで上昇した。日経のコメントによると、このまま政府負債の膨張が止まらず、少子高齢化を背景に家計の貯蓄が減少に向かえば、2020年までに政府負債残高が家計資産を逆転する可能性がある、という。(2009年12月30日、Nikkei Net)これに個人資産のキャピタル・フライトが加わるとなれば、日本は数年のうちに外貨建国債の発行とその本格的な海外消化に追い込まれることになる。財政にも途上国型の「意図せざる国際化」が起こるのである。

オフショアに逃避した家計部門の資産が、これも国外に逃避した企業に、国外において循環する。国内の財政と企業のバランスシートは形骸化する。こうした典型的な途上国の資金循環パターンに日本も嵌り込む事になる。2010年は企業部門、家計部門、公的部門、さらに資金循環さえもが「意図せざる国際化」に追い込まれてゆくことが明確になる年。さらにそこからの出口はハイパーインフレしかないと観念する年。従って、2010年のポートフォリオ戦略は、とにかくキャッシュを厚く、流動性を重視しつつ、資産のキャピタル・フライトを本格的に準備して資産価値の保全を図る作業が基本になる、と考えている。

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