2020年12月31日 (木)

1953年頃の富士見ヶ丘

2019年暮、富士見ヶ丘駅前通りの蕎麦屋「まるか」が閉店した。子どもの頃から馴染んだ店がまた一つ、時代の波に呑み込まれた。その跡地にはインド料理店ができた。

1953年頃、現在の久我山5丁目は久我山1丁目だった。その1番地は麦畑に囲まれたサツマ芋畑。芋畑を潰して更地になった土地に、四人家族が家を建てて引っ越して来た。父・母・妹と私だ。春には麦畑で雲雀が啼き、養鶏場の匂いがした。夏には向いの雑木林に珍しい蝶や美しいオオミズアオという大きな美しい蛾、クワガタなどの甲虫類、そのほか沢山の虫が生息していた。近所の原っぱには背の高い雑草が生い茂り、子供たち同士で隠れ家を作って遊んだ。

未舗装の泥んこ道だった駅前通りの、水道道路(現:井の頭通り)に近い所に宮前堂という文具屋があり、そこの看板娘を母が密かに宮前小町と呼んでいた。私は習字の授業で使う半紙をここで買っていた。その向かい側の佐々木医院は代替わりして今もある。もう少し駅の方に歩くと、新田縁通りとの左角にカラタチの生垣があり、ナミアゲハやクロアゲハの幼虫が育っていた。その先、森田酒店の隣に老夫婦が営む木村やというパン屋があり、日曜日の朝にはメロンパンやグローブの形のクリームパンをよく買いに行った。その後そこは朝日屋という蕎麦屋に変わったが、それも今はもうない。

 駅前通りと人見街道の交差点には木下青果店。おじさんが沢山の野菜をオート三輪に乗せて近所を回っていた。おじさんは年を取り、今は同じ場所のファミリーマートのオーナーだが、野菜を少しだけ揃えているのが八百屋だった証だ。そのまま駅に向かうと、右側にサトウ・アート・キンダー・ホームという幼稚園があった。妹が通い、「園長ゴジラ」や「マキコ先生」に可愛がってもらっていた。幼稚園はもうないが、同じ場所に今でも佐藤という表札が出ている家がある。

 幼稚園の向かい側には私も通った朝倉先生のピアノ教室があり、その先は雑木林で、夏にはカナムグラが茂り、キタテハがよく来ていた。小学校の授業で貰った教材のプリント類を学校帰りにここにこっそり捨てていた。その跡地に国民銀行ができ、その後名前が八千代銀行に変わったが、今は空き店舗だ。

さらにその先に風呂屋、マイマート(現西友)。モスバーガーや果物屋もあった。その向かい側を駅方向に向かうと一心同堂薬局、そして林屋酒店。そこの恰幅の良い主人が区議選に立候補したが、あえなく落選した。その後は一時本屋になったりウェルシアになったりしたが、今は日本生命のオフィスだ。その先に私が密かにタヌキと呼んでいたおばさんのやっていた高村文具店、コウモリ傘みたいなおじさんが傘も売っていた下駄屋。今はデリカに変わった小田島精肉店もあった。

さらに駅に向かって左側には喫茶店の菊屋、大衆食堂、荒川金物店、デパ地下にも出店していたケーキのミノン。マクドナルドの小さな店舗もこのエリアだった。

通りの向かい側に戻ると青果店があり、そこの若奥さんが綺麗な人で、母は美人八百屋と呼んでいた。更に駅に近く、若夫婦が始めた中華の楽陽軒は安くて美味しかったが、50年ぐらい営業して閉めた。その先に閉店したばかりの「まるか」、商店街の夏祭りのサンバの行列に火炎瓶を投げ込んだ洋酒屋、閉店した和菓子屋のみよし、今もある内藤電機店と浅川理髪店。踏切横には青柳という和菓子屋があったが、その後レインボウズ・エンドというケーキ屋に変わり、そこも今はランドリーだ。その向かい側は理髪店(その後移転)、三井銀行(その後三井住友銀行永福町支店に併合)、小さいショッピングアーケードの中には富士見ヶ丘最後の魚屋もあった。そのビルは、今はドトールとセレモニー・ホールになっている。

1953年頃ここにやって来た4人家族は一人ずつ居なくなって行き、今は私1人だけが残っている。だが新しい家族が沢山増えて、とても賑やかに暮らしている。

 

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2012年10月18日 (木)

【コーヒー・ブレーク】 1980年頃のニュージャージー州フォート・リー(再掲)

Fannie, Freddie and Maria

Everything comes to an end someday; Fannie Mae and Freddie Mac were no
exceptions. While I was staying in New York with my wife in early September of
2008, US government announced the take-over of Fannie and Freddie. Apart from
business trips, this was the second visit to New York for me and my wife after our
stay from 1977 to 82.
 
Fannie and Freddie, both quasi-government companies have played a pivotal role
in the development of US economy in the past 70 years; Fannie was created in
1938 to provide liquidity to the distressed mortgage market, and Freddie was
created in 1970 to compete with Fannie. Both companies have facilitated easier
access to possessing houses through distributing securitized housing loans
purchased from commercial financial institutions to investors.

In 2003 Freddie was found to have underreported its results by $7 billion, and in
2004 Fannie was reported to have inflated its earnings by $9bio. In May 2008
Fannie reported a first quarter loss of $151 million, and in August Freddie
announced a loss of $821 million in the second quarter. According to Nikkei (July
15-16), outstanding balance of bonds issued by Fannie and Freddie amounts to
$1.6trillion, of which 80 percent is owned by foreign investors including sovereign
entities. They were too big to fail.

The fall of Fannie and Freddie was largely attributable to American consumers’
lifestyle itself; spending more than earnings. Such negative rate of saving has long
been sustained by the continuous rise of the home value, which lifted the credit line
available to consumers for more borrowing and spending. Negative rate of saving
was made possible by the securitization of housing loans by Fannie and Freddie,
and has supported consumer-led US economy as well as economies of the rest of
the world. The role of Fannie and Freddie came to an end, and it symbolizes the
beginning of an end to the US hegemony in the global economy.

From 1977 to 82 I was living in New Jersey with my wife and a son of pre-school
age. We rented the second floor of an Italian family; Salvador was running a grocery
store in Manhattan, and Maria was looking after the whole family including their two
high school boys. On weekdays I drove to work to a bank office on Wall Street, and
on weekends we often had BBQ together in the backyard. Maria took care of our
son when we had to go out.

We still kept in touch after we left New York in 1982, and in 1986 we were
informed that Salvador passed away. In 1994 my wife had a serious damage in
spinal nerves, never to recover in full. When we traveled to New York in 1998 for
the first time since we had left there, we paid a surprised visit to Maria. She
welcomed us with a big and warm smile. She liked very much the Japanese craft we
brought for her.

Every Christmas we sent a card but she never wrote to us. In September 2008
we paid another surprise visit to Maria. We parked the car in front of Maria’s, and
she probably heard the sound of the engine. The house door opened, and there
stood Maria, smiling full and warm.

She invited us in and asked if we used to live on the second floor. She said she
was no more renting out upstairs, and started talking with her familiar casual voice.
Long time ago a Japanese family was renting the second floor. The husband was
working in downtown Manhattan; they had a 2 year old son. They were very nice
people. After 20 years they suddenly visited me with a very nice Japanese gift. The
wife then had problems in legs and couldn’t walk well, just like you, Maria said to
my wife. They still write to me and I feel so sorry I cannot write back.
When we kissed her farewell, she looked us warmly and said she was sorry she
could not remember us. Yes Maria, you do remember us! We live in her memory as
she does in ours, forever and ever.

On the way back to Manhattan, Hudson River was as blue and serene as it was
30 years ago. We realized that we came to New York this time to meet ourselves in
the past, young and struggling; we could meet them, but now we know they won’t
be around any longer when we come back next time if at all. Everything comes to
an end some day.

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年10月 2日 (火)

1987年ごろの甲東園駅周辺

【コーヒー・ブレーク】 

駅の北口を出たところは狭いバス・ターミナル。そこに小さい本屋があったのを覚えている。北に向かう駅前通りの左側には家族でよく行った亀鮨。手ごろな値段で新鮮なネタを出してくれた。

駅前の裏通り角にはお好み焼きのタケダ。ネギ焼きが美味しかった。甲東園を離れてから15年以上経ったある日、出張のついでに甲東園に立ち寄った。震災があったが、タケダは昔のまま同じ場所にあった。ネギ焼きを注文したら「ご主人、スジでよろしい?」と聞かれ、意味が分からず曖昧に「ああ」と答えたが、一口食べて牛スジの事だとわかった。その通りを北へ向かうと喫茶店や中華料理店があったが、5年間住んだ間に一回か二回入っただけだったと思う。坂を上ったところにある関学の前のアパートに住み、休日にはよく家族でキャンパスを散策し、大学のレストランや三田屋で食事をした。大学の生協ではアイスクリームを舐めたり、関学のロゴの入ったジャケットやシャツ、小物類を買ったりしたほか、散髪・ランドリーまで利用していた。関学前のトップというベーカリー兼喫茶店も美味しかった。

駅前から阪急今津線の線路沿いに門戸厄神方面へ行くと、心斎橋珈琲店という古い喫茶店があった。採光が良く明るい店内にコーヒーの香りが立ち込め、居心地のよい店だったが、その後ファースト・フード店に変わり、それも今はないようだ。線路を隔てた南側には、急性胃炎で入院した熊野病院があった。

駅の南側にはニューコートという小さなビルがあり、しゃれた陶器を売る店や薬局などがあった。その奥には息子が通った小さい模型屋があったのだが、残念ながらこの一帯は震災の被害にあったようで、すっかり消えてしまった。 家族みんながそれぞれにとても忙しかったが、楽しい5年間であった。

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1998年暮れの磐田駅北口

【コーヒー・ブレーク】 

初めてこの駅に降り立ったのは1998年12月30日。遠州の空っ風の手荒な歓迎に肩をすぼめながら、新しい勤務先までの20分強を歩いた。もう年末休みに入っていたため建物の中には入れなかったが、外から窓越しに新しい仕事場を目に焼き付けて来た。

磐田駅は古い木造駅舎で、南口はまだなかった。北口の改札を出ると、すぐ左側に花壇とトイレがあった。今の駅舎の中にあるベーカリーも本屋も当時はまだなく、ファミリーマートの場所にはむしろ「売店」に近いローカルなコンビニがあった。駅前広場は今と同じタクシー乗り場とバス停だったが、くれたけインはまだなかった。駅を出た右前方にはパンやサンドイッチなどを売る洒落たガラス張りの店があり、二階では軽食やコーヒーを出していた。駅前通りを北へ行くとすぐにモスバーガーがあり、午後は高校生で賑やかだった。その先には郵便局もあってなかなか便利だった。駅前通りはまだ再開発の前で、つばさ証券の支店、古い和菓子屋、青果店、道具屋などが並んでいた。後日この道具屋で小さなテーブルを買い、店主にアパートまで届けてもらった。駅前から北へ横断歩道を渡ったところにはミスター・ドーナツがあり、朝食をとるために入ると、よく米国人の同僚と出くわした。

駅を出て線路沿いの道を西へ向かい、広い道を北へ1ブロック行くと、角に洋菓子を出すちょっと洒落た喫茶店があった。昼休みにはよく磐田信用金庫の職員が来ていた。広い道まで戻ってまた浜松方面へ10メートルほどのところに、長浜という古い鰻屋があった。通りがかりに外から覗くと老店主が鰻を焼いているのが見えた。いつか行ってみようと思っているうちに、何時の間にか閉店してしまった。

最後にこの駅を後にしたのは2010年11月15日。小春日和の穏やかな午後だった。病を得て休職中であったが、ここまで来る事ができるのか確かめたかった。だがそれはとても無理だと思い知らされた日だった。いつか又ここに来る事があるとすると、その時駅はどんな表情を見せているのだろう。そして今の磐田駅もあっという間にタイム・トンネルの彼方に飛び去って行くのだな、と思った。

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1954年・武蔵野市

【コーヒー・ブレーク】 

仕事を縮小して時間に余裕ができた機会に、昔懐かしい場所をあちこち散策してみることにした。そこに昔の面影が全く残っていなくても、長い間忘れていた記憶が鮮やかに蘇ることがある。

武蔵野市、春の穏やかな午後。小学校1-2年の頃毎日往復していた、バス停から学校の西門までの1キロ弱の道を四十五年振りに歩いてみた。当時と変わらないその閑静な住宅街の狭い道をバス停から学校に向かってゆっくり歩いて行くと、向こうから母校の制服を着た小さな男の子と女の子がのんびりと歩いて来るのが見えた。下校時刻なのだろう。この道を通学していた当時の私と同じぐらいの年頃の子供たちだ。女の子が前を、男の子がその少し後ろを歩いて来た。そしてその女の子がすれ違い様、私に

「後ろの男の子に用があるんで、呼んでくれる?」

と言ったのだ。なぜ自分で言わないのかな、と思いながら、私は男の子に

「ねえキミ、この子が何か用があるって言ってるよ」

と話しかけた。すると女の子が男の子に歩み寄り、

「一緒に帰ろう」

と誘った。ほほえましく思ってその男の子の顔を見た時、男の子も私の顔を見上げた。あれ、どこかで見た事のあるような子だな、と思ったが、二人の子供たちが一緒にバス停の方向へ歩き始めたので、私も学校の正門の方へ再び歩を進め始めた。その時、四十五年前の記憶が突然鮮やかに蘇ったのである。

小学校二年の時、同じクラスの一人の女の子に好意を寄せられていた。小生意気で大人びた感じの、友達のいない子だったが、こちらも学校ではほとんど口を利かない変わり者だったから気に入られたのだろう。帰る方向が途中まで同じだったが、疎ましくて一緒に帰ることはわざと避けていた。あの日もその女の子の後を少し離れて歩いていると、向こうから初老の男性が歩いてくるのが見えた。女の子がその人に歩み寄って何か言っていたが、そのまま横を通り過ぎようとした時、その人が私に

「ねえキミ、この子が何か用があるって言ってるよ」

と話しかけて来た。驚いてその人の顔を見上げた時、彼の私への視線に何だか懐かしい暖かさを感じたのだった。

そうだ。あの男の子は昔の私自身だ。そう確信して後ろを振り返ると、バス停はまだ遠いのに、もう二人の子供の姿はどこにも見えなかった。きっとタイム・トンネルの彼方に戻って行ったのだろう、と思った。四十五年前のあの時、私はきっとタイム・トンネルの入り口を覗いていたのだ。

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